徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

あまり書きたいことがなくなってきた

幾らでも、書けるには書ける。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

感情を整理して、出来事を整理して、頭の中を整理する。

辛い思いや、悲しい思い、喜ばしい思いをすればするほど筆は進むし、昔よく通ったデイリーヤマザキで働いていた久保さんって名物店員さんについて書こうと思えばやはり幾らでも書ける。

思い出の切り崩しをしないで書いていくと、自分の心の動き方にはある程度の雛形があることに気がつく。さらに、それを表す言葉も限りがある。

すると文章なんてものは

心の動き×言葉の数(表現の方法)=文章

みたいな式で表せてしまうのではなかろうか。いくつかのパターンの文章しか書けない。

 

弊社では人事異動の季節になっていて、配置換え大会が粛々と執り行われている。僕の同期たちも四散が決定しており、これまでのように親睦を深めることも多くはできなくなるようだ。僕は昨年にプチ異動を食らっているので、今回は動くことなく、川の流れを見つめている。

仲の良かった連中が近場からいなくなるのは寂しい。

でも、案外、寂しいだけである。

これまで、いくつもの寂しいを経験してきたし、これからもたくさん寂しいが待ち受けていると思う。例えば父方母方両方のばあちゃんが亡くなった時の気持ちは、寂しいにたくさんの感情がくっついていて、それを解きほぐすのにたくさんの言葉が必要だった。そうじゃなきゃ消化できなかった。

異動の寂しさは違う。どうせまた会える。不可逆性もなければ、一度きりの出来事でもない。むしろこの先何十年も続いていくであろうサラリーマン人生を示唆するものですらある。

 

ちょっと前なら異動をつまみにたくさんの文を書けたかもしれない。でも、そこそこに寂しいを書いてきたからか、どっかでみた寂しいでしかなくってしまってる。掛け算をやりきってしまったのだろうか。

池井戸潤でいう大逆転劇だったり、山田洋次でいう寅さんだったり、大枠で言えば同じストーリーを手を替え品を替えできるのは本当にすごいことだ。嬉々として書いているのだろうか。またこのパターンかよ…って自分から出てくる物語に飽きていたりはしないのだろうか。

どうしたって吐き出すのは楽じゃない。

違いない。