徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

一人暮らしと独り暮らしの狭間で

一人暮らしを始めて8年目に入る。何だか気づけばそこそこの時間を一人で暮らしてきた。学生から社会人。世田谷、江東、大田区。職業も地域も微動しているものの、一人暮らしという点は微動だにしていない。


これまでの一人暮らしを眺めてみると、そこには一人と独りの時間が混在している。

一人と独りは大きく異なる。それぞれの持つニュアンスの違いでわかるだろう。人々の連関の中での、一人。どこか隔絶された感のある、独り。これまで過ごした中で、一人も独りも、どちらも大切な時間だったと今思うし、これからもきっとそうだ。

僕はなんだかんだで「一人」暮らしをしてきた。学校も通ったし部活もやった。上京直後、ひどく寂しい時期はあったものの、概ね人との繋がりは保ち続けている。

ただ一方で、独りの影も確かに感じている。

休みの日、自分が動かなければ世の中が何も動かない恐怖。誰も僕の部屋のドアを叩きはしないし、洗濯機を回しても誰も干さない。何をしても構わない自由と引き換えに、圧倒的な自立の強要と社会との繋がりを断絶されたような気分になる。

やはり多くの場合、独りは切ない。切なく哀しいから、それと戦い、それから逃げるのだ。


独りと戦う時、僕は能動を武器とする。

ブログもそう、作曲もそう。自らの感情や考えを吐き出すことで、独りに立ち向かう。能動を振りかざす。

受動が怖いのだ。受動からの逃避はほとんど焦りにも近い。

のっぺりと広がっているぼんやりとした時間、ある種外界から隔絶された空間で受動に身を任せてしまうと、自己が溶けて行くような気がする。雲のようなものを掴んだふりをしただけで、何も為さずに日が暮れて行くのが怖い。

だから作る。嘘でもちゃちでも何かを為した証を残して、一日を終える。


救いは、独りがあってもまた一人になれる点だ。一日中独りを貪っても翌日には一人になれる。社会と繋がれる保証がある。だから自己を保っていられるし、逆に自分と向き合いきれない。もっと独りと戦える体力があれば、まだまだ書ける文章や音楽があるかもしれない。そうとわかっていても、断絶に慄いて、独りになりきれず終わる。


誰しもが一人と独りを往来しながら生きている。独りと独りが関わり合って一人一人になりながら、たまに少し偏って苦しくなりながら、やっていってるのだ。