徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

慣れに殺される

年々月日が経つ速度が速くなっていくのは、概ね慣れが原因だ。小さな頃なんかは何をするにも真新しいことだらけで、ちょっとした何かをするにも刺激的だった。だから一日は長く、一年は長かった。ところが大人になるにつれて日常が生まれ、生活のリズムなんてものが生まれる。会社と家。同僚。起伏はあるものの、なんやかんやで「いつも通り」になりがちだ。

外界そのものに新鮮さを見出しす時期が幼少期だとしたら、対人関係のような自分と外界との連関に新鮮さを見出す時期が思春期に当たる。世の中の中で自分の立ち位置はどのようなものなのか。如何ともしがたい感情の行き先はどこなのか。そもそも自分とはなんなのか。おおいに悩み、おおいに苦しみ、気づけば達観したふりして大人になっている。

 

先日、とある依頼を受けた。高校教師をしている同級生からの依頼だった。

端的に言えば、部活で教えている生徒が作詞作曲をしてデモを持ってきたからちゃんと曲にしてほしいというお願いだった。ここ5年くらい曲を撮っている割には進歩が少ないのだけれど、それでもいいのなら作るのは全くやぶさかじゃな。快く引き受けた。

果たして、曲の歌詞とコードが送られてきたのだが、その歌詞の素直さになんとも言えない気持ちになった。

ミスチルがよく歌うような、人間かくあるべきソングとか四の五の言わず頑張れソング。僕はあの類の曲を十把一からげにして自己啓発ソングと呼んでいる。思春期は大抵、自己啓発ソングに塗れる。特に平成初期世代はBUMP OF CHICKENという自己啓発ソングの巨匠が全盛を誇った頃に思春期を過ごしたため、ちょっと創作に興味を示した頃の僕も青くて酸っぱくて苦い自己啓発ソングを量産した。

依頼の曲は案の定、自己啓発ソングだった。でもそれは聴いても恥ずかしさをそれほど感じないような立派な曲だった。その曲を聴いて以来、どこか忘れていた気持ちを思い出した気がしている。

 

作曲者の伝えたいことを吐き出すための作業が作曲だ。作曲や作詞は相当高いレベルに達するまではどこまでも内省的で自己本位的な活動である。自己啓発ソングが生み出される背景に何があるのだろうかと察すれば、それは葛藤だ。思い悩んで苦しいから、鼓舞するような歌を作り歌う。さもゴスペルのように。

僕は最近曲を猛烈に作りたくなることが少なくなった。それこそ5、6年前はいてもたってもいられないほどに曲を作りたくなったものだったが、あの激情にめっきり巡り会わなくなってしまった。そこにきっと慣れが関係している。刺激が少なくなっているのか、刺激に鈍感になってきているのか。

 

ふとしたことから編曲に携わって、生き方を考えさせられている。せっかくだから素敵な曲に仕上げてあげたい。技術面でも考えさせられそうである。