故郷がまた騒がしい。
カーリングの凱旋パレード。12000人の人が集まったという。どれだけが北見の人で、どれだけが遠方からの人かはわからないけれど、人口12万を少し割る街での騒ぎにしたら大変なことだ。まして彼岸。僕の曽祖父を始め、北見を興した人たちもほど近い天国から見守っているに違いない。
LS北見の関係者や選手が一心不乱に向かっていって獲ったメダル。それに沸く日本、ないしは北見。懸命な姿と結果が、どれほどの人々を潤したのだろうか。
大衆に向かって何かをするわけじゃないから、エンタメとは違う。内省的に心情を吐露して共感を呼んでいるわけでもない。ただひたすら目標に向かって進んでいって、結果を残したことで、自然と周りが背中を追い出す。
赤ちゃんはいつだってそうだ。
一生懸命の姿が愛くるしくて、みんなが応援する。背中を押したがる。成長するにつれて、習い事や部活に形を変えて行く。一生懸命打ち込んでいる子供の姿に、周りの大人はホクホクする。
でも、社会に出てしまうとめっきり無くなる。静かに応援する側に回る人が多い。感動を届ける人より、感動をもらう人に。なぜか静かに役割を変えていくのだ。
僕も応援する側だ。大学生まで、比較的長い間一心不乱を続けたけれど、すっかり一歩身を引いてしまった。
感動をもらう人になるのが大人になることだとすると、大人は負けるか諦めるかした人間のことを言うのかもしれない。一心不乱をし続けられなくなった僕らの夢を、夢を追える人に託していくのだろう。
あぶくのような人気かもしれない。なにしろ北見市民は熱しやすく冷めやすい。しかし何はともあれ、一喜である。