徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

飯くらい美味そうに食えよ

つまみしか食べずに飲み明かし、うっすらと白んだ空を見上げながら、通りがかったラーメン屋に入る。気が大きくなっているのか、ほうれん草とかを無駄にトッピングしたりして、カウンターに座る。そんな誰が見ているわけでもない場末のラーメン屋では、案外みんな美味そうにラーメンを食う。さっきまでなんらかの話題について語らっていたであろう人間たちが、一心不乱にラーメンと向き合っている。健康か不健康かで測れば不健康だろう。だが、幸せとか美しさで測れば、多分に悪くない空間である。

疲れと眠気のセーキのような場で、なんでああまで美味しそうにラーメンを食べるのか。考えてみたんだけれど、酒を頂け食らった末にラーメンで〆たい人種はもれなく食事が好きだ。それが全てだろう。食べる行為が好きな人間は概して美味しそうに食べる。

しかし、そうでない人もいることを僕は知っている。食事に対して、さして興味を惹かれない人間もいる。空腹は感じるのだが、食事は別に好きじゃない。でも食べなきゃ、お腹が空いている。夕飯時の牛丼屋とかでなんとなく辛そうに食べている人は、多分食事が好きではない。休み休み、うなだれながら食事をする姿。気にしなければいいのだが、場末のラーメン屋人間からすると何故もそんなに苦しそうなのか、解せない。食事に興味がないであろうことは頭でわかっていても、本性的に解せない。

飯ぐらい美味そうに食えよ、と思う。どうせ一食。一日何食とるのか知らないが、一食は一食なのだ。生産者に思いを馳せろとか、大層な話をするつもりはない。でも心待ちとして、美味そうに食べるご飯は美味い。辛そうに食べるご飯は辛い。そんなものじゃないか。

ダイバーシティが叫ばれる中、飯の食い方なんていう重箱の隅的価値観を叫ぶみみっちい人間はきっと許容されない。飲み会行くのも、挨拶するのも、つまらなそうにするのも楽しそうにするのも、全部自由が望ましい。誘われればパワハラ、誘われなければ放置プレイ。やりたいように振る舞い、それが許容されることが多様性。

そう言われればそうだ。かもしれないけど、飯くらいは美味そうに食えよ、と、やっぱり思う。