徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

天秤の上で踊る

昨晩友人と飲んだ。大学の同級生で、付かず離れず、離れず付かず、程よい付き合いをしてきたような友人だ。僕の出自の学部にある連中は大抵が物腰が柔らかく優しい。パプリカと言うよりはピーマンだし、もやしだし、舞茸って感じのお友達が集まっている。非常に居心地がいい。

まぁ、本当に何の利にもならない形而上の話から、仕事したくない話から、漢字の成り立ちまで様々話したのだけれど、一つテーマがあったとすれば、人の好みや趣向はどうしたって天秤にかけないことには決められないってことだった。

好きな子も、嫌いな食べ物も、明るいも暗いも、楽しいも寂しいも、全部対比によって白日の下に晒される。やりがいの天秤、お金の天秤、物を乗せる天秤は様々あるだろうがやってることは変わらない。

残念ながら、社会から見て望ましい天秤の上がり方あるらしく、それに左右されてるよねって、割と望ましい側から論じると言う屑極まりない飲み会であった。休むよりも仕事してる方が暇潰せていいんじゃねっていう、超ワガママ論理であるが、暇つぶし以上に楽しさを感じているのも事実である。

ふさわしさとはなんなのだろう。ふさわしさが世の中を作るのだろうか。それは違うだろう。でも、相応しくないなりにやっていっている。相応しくないとされている層こそが相応しいを作り出している。訳わからん。

確かなのは、世の中的に明日の日銭を掴むモチベーションが必要であると言うこと、そのモチベーションを作り出す職業があると言うこと。

大波小波のような感情の満ち引きに身を委ねながらフリックをしたこの文章を読み直すことはないだろう。以上。