徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

いとまのまにまに

何にもすることない1日だ。いや、それは嘘だ。叩けばやることなんていっぱい出てくる。けど、叩かなくてもいいくらいのやることだと信じて目を瞑る。仕事もなく、保険のお姉ちゃんに会う予定もない。飲み会もない。まっさらな1日である。

取り急ぎ洗濯物を干したりして、目の前に転がっている瑣末な面倒臭いマターを掃除し、さてどうしようか。なんでもできる自由の前に心が右往左往する。取り急ぎすっ転がってるギターを持って、キリンジのエイリアンズを練習する。今更ながらキリンジの低反発枕みたいな音楽を聴きだした。君が好きだと言いたいけれどあえて言わずに言葉の兵糧攻めを食らわせていくスタイルの歌詞と、音を抜いたり足したりしておしゃれに仕上げたコード進行。平成末期の倦怠感にぴったりである。とかなんとか言って、いつくるかしれない、不意にギター渡されてなんか弾いてと言われるシチュエーションのために虎視眈々と練習しているだけに過ぎない。生暖かい自己顕示欲の表れである。あー気持ち悪い。僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで。

朝飯は最近フルグラに回帰してきた。生来シリアルの英才教育を受け育った僕は、牛乳と穀物のコンビネーションにめっぽう弱い。いくらでも食べちゃう。学生時代から社会人に上がりたてくらいまでは欠かさずシリアルしていたのだけど、ここしばらくは特に訳もなく買っていなかった。この間不意に入ったスーパーで500円ちょっとでフルグラが投げ売られていたので衝動的に買ってからというもの、牛乳とフルグラの最大公約数が見つけられないままずーっと食べている。牛乳がなくなったタイミングではフルグラが余っている。フルグラがなくなったタイミングでは牛乳が余っている。仕方ない、買い足すか。こんな具合で食べているからそのうちカロリー過多で太るんじゃないかと思ってるけどそんなに心配してない。美味しいこそ正義。

ギターも一通り弾いて、ご飯も食べて、洗濯物も干した。曲でも作ろうかと思ったけど、殊に今日は穏やか過ぎて曲作るエナジーすら湧いてこない。図書館でも行くかなとフラフラすぐそこにある図書館に向かう。外は真夏日らしい。真夏となると、そんじょそこらの暑さじゃない。蒸している。小籠包の気持ちが少しわかる気がする。全身にお湯を含ませたガーゼを貼られているような感覚。夜も気温は下がらない。なんの罰ゲームでこんな機構のの場所におしくらまんじゅうしているのか。おしくらまんじゅうのプレイヤーながら擬を呈したい。

図書館は涼しく、人生の一仕事を終えた壮年過ぎの皆様が物憂げな顔で新聞とにらめっこしたり雑誌読んだりしている。家にいても旦那や奥さんと蒸し蒸ししてしまうのだろう。一つの逃げ場としての図書館。プライスレス。横目に見ながら三島由紀夫が置いてある書架に行くも金閣寺は借りられてしまっていた。読みたい本が置いていないのは図書館の常である。何借りようかとフラフラしながら、宇宙の図鑑と村上春樹を借りてきた。村上春樹の著作はほんの数冊しか読んだことがない。それも短編何冊かとノルウェイの森だから、村上春樹のなんたるかを全く知らないでやってきている。いい機会なのでねじまき鳥クロニクルを借りてきた。昔大学の友達に実家が本屋だって話したら当たり前のように読書家認定され、村上春樹トークをものすごい圧力でされたことがある。申し訳ないけど読んでないくせして適当に話を合わせた中で、ねじまき鳥クロニクルを僕は絶賛したのだった。読んでないのに。名前だけ知ってる本を絶賛するほど危険かつ愚かなことはない。深掘りされたらアウトである。しかしこちとら話を適当に合わせまくってきた歴史の上に立っている。実家が本屋の説得力にかまけてそれとなく文体がどうこう、春樹の当時の作風がどうこうと知った顔で知った言葉を並べ連ねてうまく危機を乗り越えた。あの日の罪悪感への償いとして、読んでみることを決めた。春樹に疲れたら図鑑、図鑑に飽きたら春樹で今日一日を過ごす魂胆だ。

図書館から出たら相変わらずの真夏が口を開けてて、飛んで火にいる夏の虫の胸中を慮らざるを得ない。さぞ暑かろう、さぞ暑かろうと揺らめきだった道路を眺める。生活の糧を手に入れにスーパーへ向かう。我が家とスーパーとを直線で結んだ時、図書館が中点に来るくらいの距離感。もう半分歩く。

大田区の大森や蒲田のあたりに越して来て半年が経った。町工場が所狭しと並ぶ路地をぶち抜いている幹線道路が「産業道路」である。日本を動かして来た地区なんだろう。暑さは別として、下町の住宅街で生きる分には東京を感じない。東京の看板が新宿渋谷六本木丸の内池袋あたりであるなら、今住む街は東京ではない。東京の看板が近い、ただの街だ。だけど、東京の看板が近いことが今の日本においてはこの上なく重要で、東京が太陽とすると首都圏が多分地球の公転軌道、北海道は海王星とかだろう。離れると寒くなる。海王星にはあまり唆られない。場所に縛られない世界が広がりながら、結局は場所に縛られている。人が人を呼び、塊になって都会を形成、すでに耕した畑を掘り返しまくって情緒が薄いメトロポリスが完成して行く。公団の屋根の上にボーイングが飛ぶ景色すら、過去のものだ。僕もきちっと塊の中の一人で生きている。居心地はいい。悪くない。でも次のW杯の頃はどこにいるやら知らないぞと羽田まで続く下町の道路を歩きながら思う。

洗剤を買って、食材を買って、帰って来て、いよいよ春樹と向き合うだけになって、この文章を書いている。取り止めもないことを書いてこんなにも筆がパタパタ進むのは久しぶりである。よほど心が穏やかなのか、なんなのか。隣のスマホは震えることなく真っ黒の顔を仰向けに寝ている。常日頃誰かからの連絡を待っているような気がしている。暇つぶしとさみしさ紛らしのために。阿呆らしいけど、世の若者の大半はそんな感じだろう。発信しては反応を待ち、どこからともない連絡を待つ。で、たまに飲む。

さっき歩いた羽田まで繋がる道は遠くに行くに従って細くなっているように見えた。遠近法。当たり前の話だ。これから僕らはどういう道を果たして行くのか。細くなって行くのか、細くなった先に空港が待っているのか、広がるのか、止まるのか。この星のこの僻地で。

 

今日のお昼はカツ煮です。