徒然雑草

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酔っ払っているからこそ書ける死刑制度について

夕方、同僚のお姉さまから一連のオウム事件に関わった死刑囚達の刑が執行されたと聞いた。それまで一切知らなかった。今の子はワイドショーとか朝のニュースとかみないの?って言われた。案外今の子はみないのかもしれないです。反省します。

 

それはそうと今朝、たくさんの人を殺して、たくさんの人に迷惑をかけた7人の死刑が執行されたらしい。調べてみると27人がオウムの手によって犠牲になっている。怪我等々を含めるとこんなもんじゃないだろう。その数だけ遺族や被害者の親族がいる。鼠算的に悲しみと迷惑を被った人が存在している。たまったもんじゃない。

今回の死刑執行に際して、死刑について酔った頭で書く。

遡れば幼い頃、僕は死刑なんて当たり前のことだと思っていた。死刑宣告される罪人は多くの場合人を殺めている。一方、人を殺めても死刑にならない人もいる。人一人の命を奪っておいて、自分の命が奪われないというのはおかしくないか。等価交換だろう。無期懲役とかになってる殺人犯ってなんなんだ。普通死刑じゃないのか。素直にそう考えていた。

しかし事態は案外単純なものではないようである。冤罪があるからだ。仮に人を殺したのが事実ではなかったらどうだ。今度は無実の罪で人が殺される。司法によって、国によって。実際、1+1=2のような等式で表せる事件は少なく、幾多のグレーゾーンを判断しまくって人の命を決めて行く。それこそが司法。前クールの人気ドラマ「正義のセ」ではそんなことを言ってたらしい。一回も見たことない。

加害者は確かに罰さられるべきだけど、大人になってみて、被害者の親族が何を考えるかが大事なんじゃないかと考えるようになった。まぁ家族じゃないにしろ、被害者に一番近しい人が何を考えるか。

例えば意図せず他人の書いた手紙が破れてしまった場合、誰が一番心を痛めるかといえば執筆者であることは間違いない。事件や事故も同じで、被害者または準ずる被害者遺族・関係者がどう考えて何を望むかがものすごく大切だ。法律の線がどのように引かれているか詳しくは知らない。だけど結構画一的に引かれているのはなんとなく察せるから、おおよそケースバイケースの対応になって、だからこそ判例ってのが重要になって…みたいな流れなのでしょう。

さらには、被害者が加害者を嵌めたパターンとか、被害者遺族が黒幕パターンとか、コナンや昼ドラお得意の大事件がたまに起こったりするものだからなおさら容易な判断はできない。その時に一本四方の線が引かれているということはとても重要。でもそれにこだわりすぎると本当の被害者感情が報われることもなく事件が幕引いて行く…世論も煩い…地獄の判断である。三権分立の一翼を担っているだけはある。

 

よく調べて、間違いのない事実を確認した上で判断する。これを励行する以外ないのだろうが、自分が被害者近辺の人間となった場合、多分辺り構わず憎しみを撒き散らすだろうから何もいえたもんじゃない。罪をうまく裁くよりも罪を少なくする世の中を目指した方が手っ取り早いんじゃなかろうかとすら思う。何万年と繰り返してきた人殺しの歴史を見ると、間違いなく不可能なのだろうけど。

 

描いてみたけど答えは出なかった。

着地できなかった。

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