徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

クリエイティブという罠

狂ったようにピアノを弾いている。練習が嫌いで嫌いで、ピアノの先生宅で必死こいて練習するような子供だったのが嘘みたいに弾いている。左手の五の指、つまりは小指に痛みが走っているのは筋肉の異常か骨の異常か。構わん、弾く。

昨日今日、たった2日の狂気のピアノプレイだが、そこには大きく分けて二つの時間がある。一つはお馴染みの曲のコードをじゃんじゃん弾いて陶酔するタイム、もう一つは弾きたい曲を真剣に練習するタイム。自己陶酔は感情に、真剣な練習は己の技術に立ち向かっている。どちらも日常にはそうそう現れない瞬間なので、新鮮で瑞々しい気分にさせてくれる。

技術的に立ち向かっているのは、この二曲だ。


フジ子・ヘミング~トロイメライ(シューマン)

 


「千本桜」を弾いてみた【ピアノ】

 

シューマンのトロイメライと、初音ミクの千本桜。

トロイメライは往年弾いたことがある。ピアノと縁遠くなってからも実家に帰るたび確かめるように弾いていた。ゆっくりした運指だから技術がサビサビになっても立ち向かえる数少ない曲。楽譜見ながらやっとやっとなのを、暗譜してきちっと弾けるレベルにまでしたい。

千本桜はやっぱりこのまらしぃ氏のピアノが絶妙で、なんとか攻略したい気持ちでいる。そもそも原曲がキャッチー極まりない。弾いてて楽しそう。弾けそうな雰囲気だけど全然指回らない。超悔しい。

 

そういうわけで、1日2日だけどものすごく弾いてる。練習してる。

技術に立ち向かっていると、ちょっとずつ上手くなっていくのがわかる。回らなかった指が、少しずつ解れていく。

この熟達のプロセスというか、上手くなっていくフローは、何かのプレイヤーになっていくためには欠かせないものだ。運動も、音楽も、もっと文化的な活動も、機械技術系のそれも。で、そういう人がめっちゃ練習して辿り着く高みに、これからAIとかが簡単に辿り着いちゃうから人間は人間にしかできないクリエイティブな活動をしようぜって躍起になってる。プレイヤーよりクリエイティブ。プレイヤーよりクリエイティブ。働き方改革とともに呪詛のように唱えられる言葉。

この間まで就職支援の一環で学生と話す機会が多くあったけれど、学生達も世の流れを察しているのか、はたまた純粋に楽しいからか、企画をやりたい宣伝をやりたいとクリエイティブに熱を上げているのが多くいた。すげー気持ちはわかるよ、自分のアイディアとか産物で世の中動かしたいよな。すげーわかる。

 

しかしだ。

この度ピアノに躍起になってみて、プレイヤーになっていく階段を再度登り直そうとしてみて、プレイが上手くならないとクリエイティブもへったくれもないことがよくわかった。回らず動かない指で何が表現できるというのか。プレイヤーの階段を上っていくことはすなわち、クリエイティブに必要なツールを増やすことに他ならない。技術は創作の材料で、その組み合わせにこそ独自性が出る。

それを無視してクリエイティブだ創作だと宣うことは、野菜がないのにカレーを作っているようなものだ。仮にルーがあり、辛うじて作り方は知っていて、具なしカレーらしき何かが生まれたとして、それは美味しいだろうか。万人に食べたいと思われる代物だろうか。クリエイティブにどんな効能を求めるかは人それぞれだろうが、食べたがられないカレーに需要はないことは確かだ。仮に野菜無し肉なしルーだけカレーがマイフェイバリットカレーで、誰に褒められなくてもいいというならば、それはそれでいいと思う。チラシの裏にでも書いてればいいのにこういう文章をブログとかに書いてしまっている僕も具なしカレー人間だ。超わかる。

 

ある意味でクリエイティビティは逃げなのかもしれない。プレイヤーとして一定程度認められるレベルに達する前に創作に走る行為は、プレイヤー同士切磋琢磨しているフィールドから自分しか競合のいない無敵のフィールドへの逃避とも取れる。歯を食いしばってプレイヤーをやりきっていた者程、上質なクリエイティブに辿り着く。プレイヤーとしての熟練度がモノを言う。

「プレイヤーとしての研鑽」や「プレイヤーとしての熟練度」は、ピアノを始めとした楽器だとかスポーツの類であれば大変にわかりやすい。正確で速く複雑な運指ができることがテクニックだし、地面へと自分の力を的確に伝えることが加速だ。そのためのドリルとかトレーニングが「プレイヤーとしての研鑽」であるし、難度の高い技術を身につけていくと熟練度が上がったとみなされる。ピアノを再開した僕は大変わかりやすい努力を始めたところで、続けていけば再来月あたりには相当の効果が出ているに違いない。ワンランク技術のレベルが上がったところで、また新しい曲のタネが生まれてくる循環に入れたらいいとも思う。


この考え方を横移動させて、学生たち憧れの企画を始めとした、「仕事っぽいクリエイティブ」に活かそうとすると、すごく難しい。

プレイヤーってなんだろうか。クリエイティブをひねり出すための、プレイヤーとしての研鑽とはなんなのか。

多分これには二つ側面がある。一つは通常業務・本来業務の反復。もう一つは人生経験の類。

例えば高卒よりも大卒の方が給料が高いのはなぜかを考えてみる。

通常業務をゴリゴリやっていくだけであれば、より早く社会に出て、業務に慣れていく方が有用な人材が育ちそうなものである。大学の4年間なんて、何を学ぶでもなく無為に過ごす者も多いのだから。でも、この四年間に企業は人生経験を見る。通常業務・本来業務と、人格形成の終わりの時期に育まれた感性や知識や価値観を撹拌して、それぞれのクリエイティビティを発揮してほしいと思って採用する。まぁ大卒の方が地頭がいいとかで投資効率がいい側面もあるだろうけど。

十人十色の学生生活があって、人生がある。飲みに行っておじちゃん達と話すのも、本読んで誰かの頭の中を垣間見るのも、どちらも本質的には他人の人生を疑似体験することであって、それをまたタネにして自分の考えやら価値観を煮詰めて、クリエイティブしていく。形になった産物なんて海洋上に飛び出した氷山のようなもので、水面下にこそクリエイティブのエッセンスがある。


つって、全部やろうと思ったらどうあがいても時間がちっとも足りないので、ひとまず目の前にある仕事とトロイメライと千本桜と全然読めてない積ん読本を順番にボコっていくしかない。途方もなさが結構極まってる。

こんなん書いてる場合でもないっぽいけど、致し方なし。