徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

impossi帽

今朝のことなんですけれども。

ひかりのどけき京急線快特。至は三崎口。マグロのメッカへ続く線路の上、僕は横浜に向かうべく、寝すぎでどこか重い頭を引き連れながらぼんやりしていた。土曜の三崎口行きは満席で、プチレジャーに繰り出すファミリーピーポー略してファミピが車窓を眺めまくっている。わかりやすい幸せの絵図を横目に僕は立つ。どうせ横浜で降りるし…とかって心でぶちぶち呟きながら。

となりに中肉中背のお姉さんが立っている。俯き加減にスマホを眺めている。ベージュのキャップをかぶっているから表情が伺えない。イヤホンから流れる音楽にそれとなく首を振っている。ファミピではない、比較的パリピ寄りのお姉さんである。

impossible

帽子の正面に印字されていた。ノートに記されたような、自信なさげな書体で綴られたimpossible。impossibleな帽子。つまり「impossi帽」を目深に被り、首をコクコク振っている。

何が、なのだろうか。何がimpossibleなのだろうか。

Tシャツのロゴなんかで、訳のわからない単語が羅列されているのは珍しい光景ではない。哀しいかな、impossibleに関しては意味がわかってしまう。わかってしまうがゆえ、気になる。

お姉さんは立っていた。僕と同じく、ファミピの幸せに打ちのめされ、立ちひしがれていた。もしかすると座ることを望んでいたのかもしれない。心から座りたかったのに、ファミピに座られている現状。impossible。ありえない話ではない。

いや、でもそれくらいなら帽子にまで印字しないだろう。胸に秘めるはずだ。そこはかとなくimpossible…と呟くことはあれど、impossi帽まで被るなんて大それたことするだろうか。もしかするともっと普遍的な、壮大な何かを僕らに語りかけているのかもしれない。

考えてもみろ、今僕らがpossibleだと考えているたくさんのことは、かつてはimpossibleだった。歯を磨くのも、ズボンを履くのも、字を書くのも、喋るのも。臓器や筋肉を動かすなんてレベルの話でさえ、impossibleだったのだ。しかし、僕らはそれを乗り越えて来た。何世代もかけてゆっくり進化して乗り越えてきたものもあるだろう。個人的な努力の賜物として乗り越えたものもあるだろう。どれもこれも全て、impossibleからpossibleへの変化だ。

そう、impossi帽は、僕らが当たり前としているpossibleへの問題提起だったのだ。お前ら、possible,possibleって調子乗ってんじゃないぞ。たまにはimpossibleを思い出せ。不可能性に立脚して初めて、可能性が見出せる。見通せる未来が生まれる。今のimpossibleも、明日の、未来のpossible。だからこそ今高らかに、impossible!

あぁ、なんて素敵なimpossible!

 

今朝思ったことでした。