徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「行けたら行く」思考

「行けたら行く」はだいたい来ない。良し悪しはさておき、今や一種の社会通念として根付いてしまった感がある。「行かない」の類義語的立ち位置に追い込まれてしまったからか、若者の会話の中ではめっきり聞かなくなった。

でも「行けたら行く」思考は日常に蔓延ってやまない。僕らの暮らしをダメにしているものこそ、「行けたら行く」思考だ。

休日の、「起きられたら起きる」や、「時間あったら掃除する」。とりあえず本を買ったけど、「読めたら読む」。話題のテレビを「観られたら観る」。考えたら簡単だ。本当にやらなければならないことややりたいことは、「〜〜したら」なんていう仮定を挟まないで黙ってやる。差し迫って猛烈にトイレに行きたいとき、「時間空いたらトイレに行こう」なんて考えないだろう。遮二無二トイレに向かうはずだ。そう言った意味で、僕らはとても自分に甘いし、甘いからこそやらなきゃ行けない事項が際立って見えている。

思うに、習慣として根付いた行動以外は全て「行けたら行くね」思考に追いやられる。それもゴミの日のような毎週しなければならない行動ですら習慣になり得ない。ゴミ箱から溢れない限り、異臭を放たない限りはどことなく「ゴミを出せたら出す」って考えていて、平気で出し忘れたり収集車を逃したりする。まして英語を勉強しようとか、小難しい本を読もうとか、楽器弾けるようになりたいとか、字を上手く書きたいとか、そういう薄っぺらい欲望と克己心の全てが「行けたら行く」思考のマリオネットと化す。

時間は有限だ。習慣を増やそうと思ったらそれまでの習慣のどこかを犠牲にしなければならない。「行けたら行く」思考から抜け出すには、「何が何でもやる」だった行動を一つ辞めて、「行けたら行く」思考枠にあった行動を習慣に格上げしないとならない。大変なことのようだが、僕らの日常はおよそ考えられないほどの無駄があって、「何が何でも時間を無為に過ごす」レベルで溶かしている時間が存在する。意志さえあれば案外習慣を作るのは簡単だったりもする。

 

何が言いたいかって、こういう文章も「時間あったら書こう」とか「書けたら書こう」じゃなく、「何が何でも書く」って習慣づけているから書けているということである。

時間の使い方や趣向の操作って本当に難しいですね。殊にそう思います。