徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

僕らが結婚できない理由

「僕ら」ってまとめんじゃねぇと言われるかもしれないけど、そんなの知りませんから。

実家にいったん戻ってきて2日。「いい人いないのかい」的な話をよくされる。これに関して、ハラスメントだとか旧部落的な考えだとかLGBTがどうだこうだというような気持ちは全くなく、気にかけてくれている人たちがいる幸せと、気にかけてくれているのであれば誰か紹介してねという気持ちが半々くらいである。誰か紹介してね。

普通に女の子と付き合ったり別れたりしながら、普通に生きている。しかし、結婚はしていない。良識ある同い年くらいのお友達たちは次々人生の伴侶を認めているというのに、僕はどこまでも孤高の戦士でありつづけている。そして、同じような人は少なくない。普通に生きている普通の人間なのに、なぜか結婚が出来ない。そういう話にならない、踏ん切りがつかない。

これ、なんなんだろうかって、人生の選択肢が多くなってしまっていることが原因にあるのではないかと考えている。決して自分のせいにはしないのが健康的だろう。

その昔、高度経済成長に浮かれていた当時の日本と言えば、終身雇用である。会社一筋40年。あとは年金悠々自適。幸せのマイホームを持ち、しこたま働いた後、盆栽でも育てながらのんびり暮らす。あまりにもわかりやすいモデルライフがそこかしこに転がっていた。黙っていてもお金は舞い込んできて、黙っていても年金で暮らしていける。会社に放り出されることもなければ、会社以外で生きる道を探す必要もない。経済的に人生を固める術が定まっていると、自然とエネルギーは伴侶探しに向かっていくというものだ。

しかし、今は違う。よく言えば道が開けているし、悪く言えば全く先行きが見えない。「好きなことで生きていく」人たちもいれば、「まったく好きでもない仕事を無限時間残業するも仕事から逃げられず世を儚む」人たちもいる。副業オッケー、高度プロフェッショナルな人材はみなし労働、プログラミングを読めない人間に価値はあるのか、Amazon以外の小売りとは、町の商店街のミライとは。とりあえず、不安なんだろう。不安で、先行きがわからない。先行きがわからないから、独立独歩を意識しなければいけない。そういう時代に、男性にしろ女性にしろ果たして伴侶を選択する精神的余裕があるのだろうか。人生の片一方で猛烈な数の選択肢があるなかで、さらに猛烈な数の選択肢が考えられる伴侶探しにまで仕事の手が回るのだろうか。

 

少子高齢化対策として、手厚い子育て支援みたいな政策を掲げるけれど、きっと一番効果的な施策は伴侶探し以外の選択肢を極力少なくすることだと思う。

朝の時間を考えてみて欲しい。

髪型も色々な選択肢がある。服装も色々な選択肢がある。朝ごはんも色々な選択肢がある。眼鏡も、靴も…となると、どれだけ朝の時間があっても足りない。だから誰もが朝の時間はシステマティックに動く。朝ごはんはいつものメニューにしたり、髪型を定めたり、服装は前の夜に決めておいたりする。選択ほどエネルギーと時間を費やすものはないのだ。

 

僕が「いい人」を見つけるのはもしかすると何かしらの足場が固まった時かもしれないし、記録的大当たりをかまして「いい人」を見つけた暁には経済的な挑戦をしだすかもしれない。「いい人」にはいい迷惑だろうけど。

でも、選択肢の雨に打たれるのも実は楽しくて、まだモラトリアムを抜け出せてないだけだったりする。ガキである。

以上、です。何か一つ付け加えるとするならば、誰か紹介してね。