徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ロックな生き方・ヒップホップな生き方

あの人は最高にロックに生きている。

お前の生き方はヒップホップじゃないんだよ!

 

音楽。そこには人生が滲み出る。ある意味音楽とは人生を切り売りしているに等しい。表現をするには非常な苦しみが伴うし、苦しみ抜いて出てきた作品は我が子のように可愛い。誰かに共感されれば天にも昇る心地で、貶されたら串刺しにされたも同然の痛みを感じる。

以上のようなバックグラウンドがあるためか、とかく音楽業界では生き様を音楽に喩えがちである。

というか、生き様を音楽に喩えると通っぱく見える。

 

清志郎ほどパンクに生きた人はいない。

ノエルとリアムのドライな間柄こそロックだ。

 

わからないではないんだ。雰囲気はわかるんだけど、冷静に考えてロックな生き方ってなんだよ。わかんねぇよ。

フリースタイルラップ等々でリズミカルな罵り合いを夜な夜な続けているラッパーの皆様も、「お前は全くヒップホップじゃない。ポップだ。」みたいなことをパンチラインにしてる。すると、お客さんが狂ったように沸く。「そうだそうだポップだ!お前なんかヒップホップでもなんでもないやい!」ということなのだろう。ここでも冷静にみると、「(お前の人生は)ヒップホップじゃない、ポップだ。」が果たして悪口なのか、そもそも意味が通っているのかわからない。でも雰囲気で沸いちゃう。

ロックならロック、パンクならパンク、ヒップホップならヒップホップの概念があり、それに則った生き方ができているか否かがポイントなのだろうか。はたから見ていると、才能溢るる新進気鋭のアーティストが退廃的な生活に溺れ行く中できら星のような作品を残して死んでいけば全部ロックだしパンクだしヒップホップに見える。穿った見方をしすぎでしょうか。

 

ロックな生き方・ヒップホップな生き方がある中で、ボサノバな生き方って全然聞かない。というか、想像もつかない。地元をレペゼンしながらビートを乗りこなすのがヒップホップ。じゃあ、ボサノバとは。エゴラッピンのボーカルとかがボサノバな生き方してそうだけど、印象操作に引っかかってる気がする。

 

まぁなんだ、生き方が形容されるほどの人生を生きてみたいものである。