徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

誕生日をサプライズでお祝いしてもらって

昨日がそれでした。

親しい友人より「内房に遊びに行く!」という、わかるようなわからないような名目のもと、訳も分からず連れ出されたと思ったら気づけばそこはディズニーランドで、現地では来るともなんとも言っていなかった友人が待機していた。ザ・サプライズ。

ディズニーのチケットが誕生日プレゼント。楽しく遊ばせていただいた。

素直に、僕の誕生日を祝いましょうとの声かけで集まってくれた人たちにありがとうの気持ちが溢れている。企画をした人も、企画に乗った人も、ありがとう。まじでありがとう。日常を崩して、休めるはずの休日に出てきてくれるその気持ちに、ありがとう。


そう、日常である。

悲しいかな僕らには日常がある。これまでもこれからも。

子供の頃の日常は、生まれた場所に大きく左右されていた。都会と田舎、兄弟の有無、親の人間性。ありとあらゆるランダムが重なった上で、幼少期の日常がある。それは僕らの手でどうすることもできないものだ。物心ついた時からの環境だからこそ、余程のことがなければ何も考えずに暮らせてしまう。

しかし今になっての日常は違う。

自分で選びとったからこそ強く拘束される。方や、自分で選びとったからこそ簡単にやめられる。自己責任を迫られる中、多くの場合では前者だ。

日常と生活とお金が密接に関わるからこそ、日常は経済活動化する。つまり、生活の中で仕事が大きなウエイトを占めだす。時間的にも、気持ち的にも。


だから嬉しい。

自分の誕生日という酷く個人的な事情で、日常を崩そうとしてくれる人がいることが、何より嬉しい。心に余裕がある人たちの友達になれてよかったと思うし、だから自分も心の余裕をもって生きたいなと思う。

価値観が近く、話しが合う友人にたくさん巡り合って生きている。なんと幸せなことでしょう。


ほんと、ありがとう。