徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

同じ話を何度もする大人になりたくなかったけどなった

僕の父方の祖母は大変な話好きで、齢96だか97だかで逝去するギリギリまで雄弁多弁な女性だった。それはよく話したのだけれど、幾多の話の中には彼女なりの鉄板ネタというのがあった。ボウリングが流行ったころ、カーブボールを投げようとしたらつんのめって転んでガーターに膝をぶつけてパンパンに腫れたために今足が悪いって話に関しては耳がタコで完全に塞がるレベルで聞いた。

大学に入ってからも何度も何度も同じ話をする友人と出会い、端的に自分が話したことすらも記憶できないとか相当やばいんじゃないだろうかと日々日々感じていた。お前それ一昨日話してたよと、別に指摘してやっても良かったんだけどあまりに楽しそうに話すのと、オチがわかっているとオーディエンスとしても完璧に盛り上げられるので、それはそれで楽しくて雄弁に喋ってもらっていた。

会社の偉い人にも、近所のおじちゃんにも、同じ話マンはそこら中に転がっている。

 

絶対に、僕はそうならないだろうと確信していた。なぜなら人と話すときの集中力に関しては誰にも負けないと、自負があったからだ。毎日一生懸命楽しく会話しようと頑張っている、その一言一句をどうして忘れようか。何話したか記憶にないとか、そんないい加減に人と話していいものですか。全く。

みたいなことを思っていたんだけど、最近殊に同じ話をするようになって来た。なりたくない大人に近づいている。嫌だ嫌だ。

なぜだろう。なぜ僕らは同じ話をしてしまうんだろう。

 

これ、理由は三つあります。

  •  所属するコミュニティの増加
  • ネタの枯渇
  • お酒

どれもこれも重要な原因である。

所属するコミュニティの増加

社会に出ると否応なしに人との付き合いが増える。会社の中の横の繋がりが蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。蜘蛛の巣の交点が人付き合いだとすると、それはもう恐ろしい数の人付き合いがひしめき合っている。

無数の交点が存在する中、どの交点でどんな話をしたか、だんだん整理できなくなってくる。4年に一度会うくらいのオリンピック的友人ならまだしも、一番怖いのは3ヶ月に1度会うくらいの友人で、それはもう整理がつかない。

しかし、4年に一度の友人でもネタの枯渇によって、僕を同じ話人間に仕立て上げる。

ネタの枯渇

そんなに毎日毎日面白いことがあるわけでもなく、日常に溶けて流れていく。自分の心の中に残る面白いこといわゆる鉄板ネタは何かっていえば、10年くらい前の出来事だったり、うちのばあちゃんで言えば50年くらい前のボウリングだったりする。

どういった事象が鉄板のネタになっていくのか。

自分の知的好奇心を満たした大きな出来事とか、身体にしろ心にしろ痛かった話が多い印象がある。大学生に戻ったら論文とか書いてみたい。鉄板ネタについての考察。

いいとして、特別拡充されるわけでもない鉄板ネタを使いまわしていくうちに同じ人に何度も同じ話をする羽目になる。

お酒

これが最も恐怖である。何しろ記憶をバグらせる。自分の口が、四肢が、どういう動きをしているのかをコントロール下に置けなくなる。最近どっかの市議が居酒屋で酔っ払った挙句セクハラを散々して指摘されたら店のガスメーターをぶっ壊したって話を聞いたけど、酒には十分それだけの力がある。

流石にそこまで壊れはしないが、自分が何を話していたのか把握できなくなることはめっちゃ多いし、話しているのは慣れ親しんだ鉄板ネタが多い。結果、酔っ払った同じ話をするおじさんの完成である。

 

 

何が大事かって、たくさん友人を持ち、たくさんの思い出を作りながらも、お酒に飲まれることなく、思い出話ばかりに浸ることなく生きていくことだろう。

そんな芸当、僕にはとても無理なので、おとなしく同じ話を紡ぎ続けたいと思う。