徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

今朝とこの頃のこと

これからしばらく、東京は秋晴れの日が続くらしい。いいだけ世間を騒がせた台風ラッシュも、激烈な被害を受けた地域を除けば喉元を過ぎ去り、なんでもない晴天をなんでもなく受け取り消費していくのが僕ら庶民。

今朝もそれはそれはいい天気で、外はほんの少し肌寒いけれど室内に入れば日の光は暖かく、車窓からの日に背を照らされながら働きにでる。連休のあと。猛烈な仕事が積載されているであろうデスクがすぐそこに待っている。

 

全くコントロールできていない仕事量に翻弄されながら、上下左右よりつっぱりを食らう日々に両脚を突っ込み、2ヶ月が経つ。別にこれまで暇してたつもりもないが、比較的のんびりしていたらしい。間違いなくここ2ヶ月の緊張の糸の張り具合は自分史上に類を見ないものだ。今のところ空中姿勢は乱れ腐ってるけど、そのうちいい人生経験だと言えるよう、うまく着地したいなと思う。

 

めっきり書く頻度も減ってしまった。時間がないのもそうなのだが、まったくもって書く気にならない瞬間もある。あまり感じたことのない感覚だ。

どうやら糸が張っているときには創作しようと思わなくなるらしい。辛いときや苦しいときほど創作は捗るものとこれまで考えていたが、どうも違うようだ。

考えてみるに、創作とは、ピーンと張った糸が弛緩したとき、張った水準と弛んだ水準との狭間で行われる。少なくとも、僕の場合はそうらしい。

どれだけ辛いことが起きて、どのレベルの水準で糸を張り、それを乗り越えられたときにどれだけ弛緩できるか。落差があればあるほど文章を書き、曲を作る。しかし、糸を張っている最中では、創作が入る余地なんて一分もない。

これまでそもそも、仕事や生活など人生の本線で、大して糸が張っていなかったのだろう。細かい緊張と弛緩はあったものの、それは多分程よいものだったらしい。だから毎日毎日文章が書けた。今はどうだ、情けないほどである。別に毎日書くことを課しているわけではないが、ほとんど嘔吐に近い執筆作業を通して取っていたバランスが確かに崩れていっている。

多分、この糸の弛緩がうまくできなくなったとき、心が苦しくなるのだと思う。なんとなくだが、わかる。うたかたの享楽にも緩まなくなった糸は硬化して、切れてしまう。

 

 

糸をピーンと張り、向かい風を切って走って、初めて凧は飛ぶ。でも、張ったままじゃ高度は上がらない。糸を弛ませて、だるーっとした糸を持ってもっと走る。そうしたらまだまだ高く凧は上がる。

弛緩と緊張の繰り返しのなかで、沢山の文章を書いていたいし、もっともっと高く上がっていきたい。というか、不断の上昇を義務付けられている気すらする。糸が切れて落ちたら誰かが拾ってまた糸をつけてくれると信じて、できるところまでやっていきたい。

明日も。