徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

徒然

徒然の意味を僕はちゃんと知らない。ちゃちゃっと新しいタブを開いて、「徒然とは」と検索すればスマホの皮を被ったグーグルが一発で教えてくれるけれど、別にしようとも思わない。日常とか片手間とか暇とか、そんなニュアンスが徒然にはある。

人間が持ちうる時間なんてたかが知れていて、一日たったの24時間。そこに日常があって、徒然と生きている。僕らの徒然は無意識に決めている優先順位によって構成され、歯磨きより寝るのが好きな人は歯も磨かずに寝てしまうだろうし、寝るよりドラマが好きな人は寝る間も惜しんでドラマを観る。それら細かい細かい選択の集合体が僕たち人間を人間たらしめている。文化的生活の根幹である。

 

2ヶ月くらい前まで毎日文章書いてすごいねぇと言われていた。僕の徒然は文章を書くまでがセットで、徒然と文字を叩きながらその行為こそ僕を形作っていた。執筆の優先順位は極めて高く、電車の中、校舎の影、芝生の上、吸い込まれる空、幻とリアルな気持ち感じていた。この世界からの、卒業。さておき、場所を選ばずどこだってモノを書いていた。

生活が変わる際たる原因として、三つあげられる。

場所が変わるか、内容が変わるか、時間配分が変わるか。

やることが変わらなくても東京から北海道に場所が変わったら生活は一変するだろう。東京で9時5時の仕事だとしても、SEと銀行員だったら全く生活が違うはずだ。また、これまで9時5時の仕事だったのに24時間戦えますか的企業と巡り合った日には生活とは…と自問自答が止まらなくなる。

そういうわけで、異動とは名ばかりの社内転職が行われたこの9月から僕の生活は大きな転換点を迎えており、物を考えるとか物思いに耽ることが大変難しい状況に置かれている。そう、徒然の崩壊である。24時間の内容と時間配分が変わった上、別途夜間の泥酔が頻繁に行われるようになり、心と身体のバランスを取るのが難しくなってきている。まるで思春期のように。しかし感受性がカチコチになった今、思春期のような瑞々しさは存在しない。不用意な思春期である。

 

陸上をやっていた頃、300mという距離を頻繁に走っていた。筋持久力の向上と耐乳酸を目的としてのトレーニング。400mという距離を主戦場としていたのだけれど、当時は練習で300mを無限に走って、実際のレースのラスト100mは根性一発でなんとかするみたいな考えの元、1日に10本も20本も300mを全力疾走していた。

正直、3本も走ればゲロゲロになるほどに大変しんどいところ10本走るというのは鬼畜の極みで、どうにもこうにも足が動かなくなってくる。酸欠で目の前はチカチカする。手先はしびれる。ケツは乳酸地獄で動かない。

それでも走るのだが、走りきるのに何が大切って、最初の3歩でどれだけスピードに乗せるかである。

人間の体は不思議なもので、一度スピードに乗せると案外そのまま突っ走れてしまう。もちろん体調にはよるけど、調子がいい時には最初の三歩さえ踏ん張れば後は足が動いたものだった。

日の徒然も同じようなものかなと感じている。

日常が壊れだしても最初の三歩をしっかり踏めればあとはスピードに乗っていく。それがよく三年とか3ヶ月とか言われる所以なのだろう。日常が変わってすでに2ヶ月が経過した今、あと一歩しか残っていないくせしてスピードに乗る気配も一切ない激雑魚野郎なんですが、あと一歩残ってるからとりあえずそこだけでもがっちり踏もうと思う。

そうしてうまくスピードに乗れたら、もしかすると日常に執筆が戻ってくるかも知れない。だといいなとも思う。

 

曇天極まる、11月の東京。一雨ごとに秋は深まり、冬の足音も淑やかなものではなく、猛ダッシュで迫ってきている気配に満ちている。先日仕事で業務用の大きな冷蔵庫にて作業をしたのだが、あの空気の冷たさに故郷の冬を思い出した。東京の冬はやはり生ぬるく、生命を脅かされている緊張感が感じられる故郷の真冬の寒さ。体調不良とか目先の辛さを吹き飛ばしてくれる寒さが少し恋しい。

12月、所用で里に帰ることとなったので、寒さを味わってくる。それまでには、スピードに乗っていたいとも思う。改めて。