徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

言葉にできないから、僕は何も知らない

また唐突に本を買い出した。有用な実用書でもなんでもない、小説ばかり。なんの役にもたたないけど、切羽詰まって来た時に無理やり心の隙間をこじ開けてくれるのが小説であり、言葉である。

「コンビニ人間」を買ったのがきっかけだった。

どえらく流行っているらしいことは知っていたけど読んでいなかった芥川賞受賞作。なんとなく気分がいい時に本屋を通りかかったら平積みされていたので、衝動的に買ったのだった。これがよかった。

同調圧力が理解できず、一方で心の赴くままに生きていると白い目で見られる。他人が吐いている言葉を飲み込み組み合わせ、さも自分の言葉のようにしながら毎日を誤魔化す。コンビニという箱の中ではマニュアルが圧倒的な正義であるのに、世間の渡り方にはマニュアルがない。コンビニではお客様を喜ばせられればいいのに、世間では誰を喜ばせればいいのかわからない。ひとまず、周りの人に不審がられないような生き方を取り繕って生きていく。

誰でも理解できるであろう葛藤がテーマだ。それを包むのが言葉である。

 

ストーリーで泣かせる小説というのがある。人や動物の死と友情と恋愛を二重螺旋構造に編めば泣ける物語となる。また、どんでん返しのミステリーもある。密室とミスリードをミルフィーユ状に折り畳めば、「衝撃のラスト15ページ!あなたは戦慄する!」とかいうポップが平積みにされた上に踊る本が生まれる。

物語の起伏や謎で読ませる本も人並みに読んだが、あの類の本は斜め読みがしやすい。言の葉の端々までくまなく読まなくても大枠が把握できてしまうし、泣けるし、びっくりできる。エンターテイメントとしては極上だ。労をかけずに楽しめるのだから。

芥川賞、純文学と呼ばれるジャンルはどうも少し様相が違うようで、物語もそこそこ、言葉で心を動かしてくる。絶妙な比喩、未踏の表現がたくさん並ぶ。取るに足らないことや当たり前のことを丁寧に丁寧に描写している様は美しい。斜め読みしてしまうと全部見過ごしてしまうけれど、ゆっくり立ち止まりながら読んでみると素晴らしい表現が詰まっている。

 

疲れている時に読みたいのは起伏がある峠のような本より、田舎のあぜ道のように平坦な本だったりする。アップダウンで内臓が浮くスリルを味わうのでなく、稲穂の一本一本まで丁寧に、でもぼんやり見つめるような緩やかさを求めてしまう。日常生活の起伏で疲れた心をを一生懸命になだめようとしているのだろう。

 

日常を書き続けてややしばらく経つが、僕は多分日常の少しも言葉にできないでいる。改めて本を読んで、読み返して、思う。文章を書くことは子供に名前をつけるようなもので、日々の取るに足らない心の動きや感情に言葉を添えて、解きほぐして理解することだ。作家たちが理解している世界は、僕が理解しているそれよりよほど広くて深い。自分のことや他人のこと、世の中のことを知った気でいて、何も表現できていない。ほとんど、知らないのと一緒だ。

もっと本を読めばもっと日常を細かく描写できるだろうか。これまでなんでもなかった景色や物事に言葉を添えてあげられるだろうか。

 

言葉を食んで、戻して、改めて少しずつでも全てを理解していこうと思っている。