徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

語れるほどの夢とか

もっと本格的に曲を作りたいからと、大学入学当初に買ったVAIOのパソコンをやめてiMacを買ったのはもう一年と半年ほど前の話になる。このMacともそこそこの付き合いだ。僕が趣味趣向のために使った人生最大の出費。どんな彼女にも、どんな友人にも使ったことのない金額を投資している。回収できているかといえばいまいちはっきりしないが、自分の満足感としては十分である。購入当初は副業的な制作活動ができればと考えていたが、正直人様に胸張って堂々と聴かせられるかといえば、難しい。いいところまではいっている気がするけど、マスタリングの面、作業環境(アパートの一室)の面で、最後の最後で違和感を払拭できていないように思う。それでも、VAIO時代を考えると格段に良くなった。

そのVAIOを使っていた頃、僕の音楽を管理していたのはウォークマンであり、つまり「xアプリ」というウォークマンでいうiTunes的なアプリだった。そのアプリの中には僕の音楽の全てがあった。何千曲入っていたかわからない。Macに移行する際 、xアプリからiTunesにデータを引っ越ししなきゃならないと知り、懸命にやったのだが、技術不足か不手際か、何千曲と入っていた曲群の中の2/3程度しか移行できなかった。その時、気合い入れて工夫を凝らし、移しきれば良かったのだけれど、そこまでの根性もなく、諸々の設定がめんどくさかったことやMacをいち早く体感したかったこともあり、移行を諦めてしまった。今でも少し後悔している。あの曲が、あのアルバムが聴きたいなんて気持ちに突き動かされたとき、痒いところに手が届かない。もどかしい。

もどかしさを極めるアルバムに、スピッツの「さざなみCD」がある。何枚めのアルバムかは覚えていないが、スピッツの爽やかで明るいイメージを凝縮したようなアルバムで、大変明るくキャッチーな印象を受ける。いわば、大衆的なスピッツ。実のところは、スピッツの深淵はマリアナより深く、草野マサムネの精神は終盤のジェンガよりも繊細で盛りの猫よりも猛っている。スピッツに一度でもハマって書き込んだ人なら誰でもわかる。そんな彼らの人様に見せても困らない面ばかりを集めたのが、さざなみCD。ずっと聞いていると物足りなさすら感じるが、たまに無性に聴きたくなる。

語れるほどの夢とか 小さくなった誇りさえ

無くしてしまうところだった 君はなぜだろう暖かい

 

さざなみCD3曲目の群青の歌い出しだ。

今、ふたご座流星群が日本の上空を通過しているらしい。ニュースを聞いて、小さい頃天文学者になりたかったのだと不意に思い出した。天体が好きだ。宇宙が好きだ。上下も奥行きも始まりも終わりも時間もあるのかないのかわからない空間にぷかぷか浮かんでいる天体。何も関係なく物憂げに浮かんでいるようで、実は太陽ないしは大きな恒星にぶん回されているだけだったり、恒星は恒星ではるか大きな銀河の一部だったり、途方もなく、わけのわからない存在に惹かれていた。γ線の話をするはるか手前のx軸とy軸の時点で脱落したため、天文学者の夢は華麗に絶たれたのだったが、もしかしたら、自分の能力が足りてさえいればそんな未来もあったのかも知れない。

これは、もう語れない夢である。今僕が語れる夢は今の僕の延長線上にあることがほとんどだ。今の僕にとって天文学者は夢ではなく、もはや過去の夢、パラレルワールドな自分とかの話になってしまっている。群青の文脈では、波が押し寄せても笑って立ち向かう強さを諭してくれているが、夢は得てして潰えるものだ。それも、気づかないうちに。それでこそ夢なのかもしれない。

かつて天文学者を夢見た男の子は、今寒いからってふたご座流星群も見上げない大人に成り下がった。悲しいな、でも、これが大人である。

小さくなった誇りは無くさないでいると、かつての天文ボーイに見せてやりたい。