徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

虚無の共有、広大な時間

友人の結婚パーティーでまた歌うこととなっている。先日はギター弾きながら高校時代の友人と二人で演ったが、今度はピアノ弾きながら三人で歌う。楽器が弾けてよかったと本当に思うし、こういう人間が親になった時に子供にピアノの習い事とかを強制するんだろう。気をつけねば。まず相手を見つけねば。

昨日、三人とも休みだったのでスタジオを借りて練習してきた。一人は同じゼミで最後の一年間卒論と共に戦った人、もう一人は4年間丸々よく遊んだ人。スタジオで練習もそこそこくだらない話を訥々と紡いだ。たった2時間、たった2時間だったけど、そこには5年も6年も前の学食の空気が確かに流れていた。お酒の絡まない、ただ喋るだけの空間がとてつもなく楽しく、何か忘れていた感覚を思い出させてくれた。

 

社会に出て4年経つが、「遊ぶ」ことがどんどんなくなっていっている。いや、遊んでいるには違いないが、何かに急き立てられるように遊んでいる。時間の消費とお金の消費をひしひしと感じながら。明日明後日からの仕事が頭の片隅に影を落としながら。

学生時代、僕は体育会で走っており、当時は当時で練習の影に怯えながら生きていた。それでものっぺりとした緩い時間の中、虚無な時を過ごしたとて勿体無さを感じるでもなく、明日も明後日も同じような日々が続いていくものと考えていた。お金は本当になかったけど、部活の友人とは寮の中にある据え置きのゲームで時間を溶かし、学部の友人とは学食の席を陣取って言葉遊びで時間を砕いた。

仕事の隙間で遊ぶのが今で、広大な空間にポツリポツリとやらなきゃいけない仕事があるのが当時。心持ちとしては当然違うし、遊び方も変わってくるのは当然だ。

 

また、人間なんて色々な面がある。一面では全く語りつくせない。

僕はお祭りのような喧騒も煩い音楽も好きなのだけど、気質的にはそこまでアッパーなパリピではない。酒飲んでネジ外れれば当然のごとくぶっ壊れるけど、そもそも育んできた性格は大変に内気だ。どちらも欠かせない一面で、どちらの自分もうまく楽しませてやることが僕の精神衛生を保つのに重要な作業となる。

社会に出てからはどうしても前者の自分、アッパーの自分ばかり表立っている。今僕が属する世の中的に望ましい姿は前者であり、期待に応えてやろうという気持ちもある。仕事の隙間での遊びには体力か金銭の消費が伴うことが多いのも、アッパーが際立つ原因でもあろう。

少なくとも、昨日行った2時間のスタジオで満たされたのは後者の自分だった。それは最近忘れていた、久々に皮膚呼吸をしたような充足感であった。

 

友人二人がどう考えどう感じたかはわからないけど、個人的にはとても有意義な時間を過ごしたと思っている。全く何にもならない時間だったけど、それ自体、時間自体が尊かった。たまにやりたいものですね。僕はそう思います。