徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

人生とは花である

今日、街角の植栽活動をした。CSR的な意味合いももった活動である。街角の花壇をせっせか掘り起こし、雑草を取り、花を植える。枯れた花は取り除く。

資本主義大国日本。国民総出で忙しい毎日を過ごしているかのようだ。そんな日々の中で、街角の植木に目をやることがあるだろうか。特に都民。ないだろう。ないだろうよ。僕もない。

植物があると街が色づいて素敵よね、心が豊かになるよね、植物を愛でる気持ちを捨てたくないよね。全くその通りである。が、雑草を取り、花を植えるといった反復作業の中で脳裏をよぎったのはそんな立派なことじゃなかった。花と人生を静かに重ねていた。

 

そもそも、花はタネを残すために存在している。中学理科の知識だけど、確かそうだ。いい匂いを出して、蝶とか蜂とかをおびき寄せ、花粉をまとわりつかせる。そして次の花に向かった蝶や蜂が、雌しべに花粉をくっつける。めでたく、受粉である。

つまり、花は種を残すための装置にすぎないというか、目的達成のための手段に過ぎない。手段のくせして、綺麗だしいい匂いがする。八方美人の完璧な手段だ。ずるい。

この構図を人間に置き換えるとどうだ。どうせ生きとし生けるものは種を残すことが目的だとDNAかどっかその辺にインプットされている。人間も同じ。では人間における花は何か。

それはおそらく人生じゃないかと、雑草とにらめっこしながら考えていた。

多分僕ら、人生をたっぷり使って、花をしている。それも、本来の目的としては種を残すためなのだろうけど、花があまりにも面白く、辛いから、花自体に意味を見出して、花こそが人生のように感じる。実際、生きてて別に種の保存のために人生してるなんて思ったことはほとんどない。人生の一部として結婚とか子供とかそういったイベントがあるような認識で生きている。でもほんとは違う。花はタネを残すためにある。

順手でできなかった逆上がりが逆手にするとできるように、物事は見方ひとつで大きく変わる。人生で一生懸命になったって、どうせ花だし、されど花だ。ラフレシアかも、ホウセンカかもしれない。蝶を呼ぶ花かも、ハエを呼ぶ花かもわからない。けど、本当の目的じゃないところで実は一生懸命になっていて、その姿はおおよそ美しい。

どうとでも取れる話だ。人生を必死に生きても、どうせ手段だと言えばそれも真だし、精一杯咲いた花は綺麗だという話も真。しかし、人生は花である。どう転んだって花だ。人生してるだけでどうあれ花は咲いているのだ。

ひとまず、咲くだけ咲かせていきましょう。