徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

明日を忘れたい夜に

人の心や気持ちなんてものは、思うより絶妙なバランスの上に保たれていて、何不自由なく生きていると思った次の瞬間に不協和音が流れ出すこともあれば、不意な何かが絶望の淵に光を差し込ませたりする。一つ一つが運で、でも運を引き寄せるのは自分で、すると、全てが自分に帰属してしまう。置かれた場所で咲きなさいと言われても、紫陽花は雨の季節じゃなきゃ咲かないし、桜は春に咲いたと思ったらすぐ散っていく。稲は水がひたひたの田んぼ出なければ実らず、野菜は肥沃な畑からのみ採れる。向き不向き、相性。形があるようでないものが社会を形作っている。

胃が痛くならないと胃の存在を意識しないように、ある程度うまく機能しているうちは気にならないものも、不具合が生じたとき、主張を始めるのは、実は体内のシステムも体外のシステムもそれはあまり変わらない。親のありがたみがわかるのは親がいなくなってから。いなくならないと、足りなくならないとわからない。愚かなものだ。

だから、何不自由ない自分をどれだけ見つめたとて、それは元気な胃袋を探るようなもので、本当の姿が見えるわけではない。苦しい思いをしている時こそ、自分がどういう柱に支えられ、何をエネルギーにして生きているのかがよくわかる。苦労は若いうちに…という格言はきっと、自分の価値観や自分の弱さは若いうちに手なづけておけという考えなのだろう。

しかし苦労を一般化するのも、また、ひと苦労だ。自分の特性を掴めたはずが、全然ちがう部分に弱さが見つかったりして、把握と対症療法のいたちごっこを続けていくのが人生なのかもしれない。


古い友人と一昨日飲んだ。彼は今まさにハードなぬかるみに突っ込んでいる最中だった。お互いにお互いの苦労なんてどうせわからないから、労うだけの会話をして、夜を明かした。当たりも障りも、否定も肯定もしないコミュニケーションを通じて、自分を一つ一つ確かめているような夜だった。自分が掴めたとしてもその延長線上にあるのは何も変わらない日常である。「わかる」「わかった気がする」という気休めを抱いて、解散した。

遠くにあるはずの安寧な日々を塞ぐ、日常。それからさらに目を背けるために目隠しをする。日々は流れるし、味が時間は経つ。

前に進むも横にそれるも、自分を動かすにはどうしようもなくエネルギーがいるものだ。目隠しの間に、勝手に時が流れる間に、少しでも動く力が湧いてこればいい。

戦わなくとも。