徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

米津玄師しか売れないなんて

日頃、米津玄師は僕のパクリであるに違いないと思っているんだけど、それは置いておいて、帰り道の音楽タイムで感じたことを書き綴る。

BUMP OF CHICKENにダンデライオンという曲がある。

2003年とかに発売した彼らの3枚目のアルバム、ジュピター。この最後を飾るのがダンデライオンだ。1990年付近の生まれで音楽が好きな人間であれば、おおよその者が聞いたことあるだろう曲。シャッフル再生で懐かしの曲がかかって、感情がブルブル震えながら家路についていた。

ふと思った。

これが受け入れられるなら俺もなんとかなるんじゃないか。

いや、藤原基央は圧倒的天才である。これに関しては全くの異論はない。細身で前髪で目元を隠しながら独自の世界観を綴っている彼のおかげで、後進たちは皆同じ方向を向いてしまった。始祖とも言える。曲が綺羅星のように輝く一方で、音質については当時のものだ。なんなら今朝の通勤時にはフォークの雄、風の曲を聞いていたが、やはり音質は70年代のそれだった。

面倒臭がりなたちなので編曲やアレンジは得意じゃない。けど、集中して作業すればこのレベルの録音はできるはずである。俺もなんとかなるんじゃないか。

ちょっといい気分で帰宅しながら、何曲か後に流れてきた米津玄師を聞いて、僕は全てを思い直した。衝撃的なまでに曲が作り込まれていた。ぐうの音も出ないレベルで、曲は完成されていた。

そこに夢はなかった。ただ果てしない程の完成度の差、それだけが存在した。身体一つ、だいたい宅録、同年代。これだけの共通点がありながら、情けないほどの差があり、さらにいえばここまでしないと売りものにならない。夢も希望もないとはこのことである。

 

最近よくyoutubeで数学の問題の解説動画を見る。現役学生の当時すらも解けなかったであろう数式がスラスラ紐解かれていくのを見ているのはとてもスカッとするものなのだが、当然のごとく使われている公式に、僕は絶望する。

ピタゴラスだとか、オイラーとか、彼らは何百年と前の人間である。遥か昔の人間が発見した数式が、定理となって今の世の中でも残っている凄さ。お分りいただけるだろうか。水洗便器もない時代だ。どうして直角三角形の直角を挟む辺の2乗の和と斜辺の2乗が等しいなんて思いつくのか。発想が普通じゃない。すごい。多分僕なんかが当時の世の中にいたら黙々と単純作業を行って、淡々と生涯を全うしていたに違いないなぁ。一市民を生きていたんだろうなぁ。

 

そう、僕は何百年も前の人に勝てないのである。ピタゴラスにもオイラーにも、音楽でいえば名だたる名作曲家たちにも勝てない。爪の皮にも及ばない。いわんや、現代のトップランナーをや。

おこがましかった。今乗っているレールをどれだけ走ったとて、音楽家にはなれない。その時点で、バンプとか風とかに勝てる訳がないのだ。なんとかなる訳がないのだ。どうにかなりたいなら、ひたすら作る。それだけである。

枯渇気味なので、適宜補給しながら日々に勤めたい。