クラシックピアノは、音楽記号に則った演奏が原則となる。音楽記号の端々に作者の思いが込められているからである。しかし、この音楽記号というのが曲者で、具体的にどんな感じで弾けという指示があるわけではない。アクセントは強調するんだけど、どのくらいの強さで!と言った指示があるわけではない。
さらに、そこにピアノの先生の指導が加わる。
もっとたっぷりとした感じで!
もっと勇ましく!
1の指がうるさいから、しっとり弾いてもらえる?ひそやかな感じで!そう!
ここに、具体的な指示はない。一般企業に勤めてしまった今からすると、たっぷりとはどういったことですか?具体的に溜めるべき秒数を教えてください。そもそもなぜここでたっぷり弾かなければならないのですか?理由を教えてください。そのたっぷりとという指示は先生自身の見解ですか?それとも作者の残した書籍等からなんらかの明示があった上での見解ですか?みたいな一般化と理由探しの議論がおっ始まる予感がして恐怖がたっぷりだ。細かいことは気にしないでください。いいと思ったからいいんです。そこに理屈はないんです。
耳元から東京フィルが演奏するすぎやまこういちのサントラが流れている。これが、とにかく勇ましく、寂しく、切ない。
かたや世の中では人が少なくなって、仕事の一般化ないしは人材のマルチプレイヤー化を進めていかなければならない話で持ちきりだ。けどこの情感は一般化していいものだろうか。突然曲にブレーキがかかってタメが作られたと思ったら次の展開に広がっていく。一般化された世界では、いくらでもDTMで出来てしまう表現なのだろう。でも、フィルが、指揮者が指示して行う生の表現をオートメーションで行うのは難しい。不可能ではないのだろうが。
芸術は属人的で刹那的だから美しく、だからこそ先が少しずつ細っていく。勇ましさの理由と、勇ましさの定義を探せる人間が優秀とされる。優秀には違いない。勇ましさを再現し、PDCAを回し、より勇ましく、より勇ましくと発展させていける人間こそ求められる人材である。
けど味がなくなっちゃうよな、ブラックボックスにしておいた方が美しいこともきっとあるよな。
東京は雪、ふるさとは氷点下29度。
みなさま、御自愛ください。