徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

海派と山派と規則と不規則

海派?山派?っていう質問が定番化してどれくらい経つのだろう。犬派?猫派?もなかなか乱暴な質問だが、海山も相当乱暴だと思う。しかし、日本の国土のほとんどが里山で、周囲はぐるりと海に囲われている。海か山かしかないと言えば、確かにそうかもしれない。

北海道の北見は市町村合併によって海がある街になった。もともと山だらけだったところ、海に面した街が合併した。北海道といえば、海の幸。たしかに海産物は美味しいが、海に親しんできたかといえば違う。同じ市とはいえ、海岸線までは40キロほど距離がある。さらにオホーツク海で海水浴をする文化は根付いておらず、海が主役に躍り出るのは流氷接岸の季節が主だ。別に毎年毎年寒い思いして流氷を観に行くわけでもない。そんなわけで、何年も海に行かないことなんてざらである。かといって山にコミットしてるかといえば、山菜を採りに行ったことも、川の上流を目指して山登りしたこともない。なんのことはない、ノンポリである。だから山派か海派かと尋ねられて、答えに窮する。


ひょんなことから、海を見る機会があった。プランクトンが豊富な黒々した海でも、羽田に面したような工業化された海でもない。魚もすまないような澄み過ぎた海だ。しばらく水面を臨んでいた。いよいよもって綺麗だった。

波はどこから来るのだろうか、わからない。けど、絶え間なく波が寄せ、西に傾いた日を四方八方に照らし、散らしていた。ストロボのような光線がたまに目を焼く。

自然は合理的にできていると聞く。向日葵が太陽の方を向き続けるように、広葉樹の葉がめいいっぱい陽の光を浴びられるように広がるように、とかく計算高く設計されているらしい。けど、あの波に関しては何の作為も感じられなかった。無為に、衒いなく、ただ波が寄せ、光を撥ね返す。作為はそれを見ている僕と、波に果敢に向かうサーファーだけだった。


不規則や不合理な美しさに目がいく一方で、生活には規則性を求めてしまう。決まった時間に決まった場所に行き、予定されていた仕事をし、できるだけ決まった時間に帰る。決まった夜と決まった朝を過ごす。

だからこそ、不規則への憧れでもあるのだろうか。決まった日々から抜け出すように、人は旅をし、観たことのない映画や劇に足を運び、自分から出てくる不規則な知らない面を確かめるように創作をする。サーファーは不規則な波を楽しみ、僕は不規則な光をぼんやりみつめる。


人それぞれ、規則と不規則が心地よい割合があって、それによって毎日に適応できたり、苦しくなったりするのかもしれない。好きな規則、嫌いな規則、好きな不規則、嫌いな不規則を無意識に判別しながら毎日を生きているのかもしれない。

海は本当に綺麗だった。でもきっと、山に行って風に揺れる葉から溢れる光をみつめても、同じ気持ちになっていただろう。どんなに忙しい、日常と規則が待ち構えていても、少し離れた場所ではこんなにも時間が緩い不規則が転がっていることに安心していただろう。


海派も山派も根っこは同じなんじゃないかと思った。