徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

定期的に書くということ

熱心な読者の皆様、ご無沙汰しております。日々日々、朝に夜に、悲しみに喜びに、画面へと向き合いキーボードを叩き続けて早5年。こんなにも文章を書かなかったことはなかった。理由は簡単である。書く時間がありませんでした。

しかし、僕は時間がなかったという言い訳は嫌いである。仕事の話ではない。日常の、趣味の話だ。時間がないから習い事をやめただとか、練習できないとか、ジム行くのやめたとか、そういった類のことを宣う人が多いが、本当にやりたかったらどんな時間を削ったとて趣味に向かうだろう。時間があったら、お金があったら。バカなことをいっているんじゃない。作るんだ。作ってまでやらないことは、どうせ何があったってやらない。

ブログにまつわる執筆作業についても、これまで結構重きを置いて、時間を割いてやってきた。しかしここひと月程度の体たらくを見てみろ。書かなくなった。つまり、時間を割いてまで行おうと思わなくなったわけだ。いつだって言い訳は簡単である。家に帰ってシャワー浴びて寝支度整えたら午前2時、翌朝6時起床みたいな日が続く中で、時間を作ろうとするのが難しい。それもわかる。しかし電車の中で寝てる時間もあるだろう、本当にやりたかったら寝る間も惜しむだろう、使おうと思えば使える時間はたくさんある。なぜやらないのか。優先順位の低下以外のなんでもない。

執筆活動に心を救われているものと思っていた。書く、気持ちを出力することで、自分の感情を客観視できるし、指の滑るままに打ち込んだ文章が考えてもいなかった自分の思いをうまく映していていて、これが言いたかったんだと納得することもある。自浄作用にも似た書き物の作用に生かされていると思っていたが、どうもそれに依存しなくても生きていけるらしい。

感情のキャパシティは各人に備わっている。些細なことで感情が溢れてしまう人もいれば、どう見ても苦しいだろうに平然としている人もいる。問題は、キャパから溢れた部分の感情をどうするかである。執筆はこの部分に関して大変有効だ。裏を返せば、日常的な執筆は、感情処理ツールのメンテナンスにはなるが、それ自体に自浄作用はない。

 

もう忘れてしまったけれど、毎日のように文章を書いていた頃は、些細なことにも感情を向けられるような優しい人間だったのかもしれない。感情が溢れて、書く必要に迫られて書いていたのかもしれない。もうそこまで優しく世界を見れる余裕もなく、かといって不平不満で溢れまくるほど荒んでもおらず。結果、書かず。

 

無理ない範囲で、やれるだけで、やっていきたいですね。

こればかりが人生でもなく、人生の余剰分をこれに充当していければ面白いですね。