徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

オンラインサロンと寂しさについて

世間は花粉に戦々恐々としているらしい。僕も去年の春には花粉症の兆候のような、なんとも言えない目元の重さと熱だるっぽさを感じていたのだが、今年はまだ来ていない。この先爆発するのかもしれないし、道民として暮らした18年の蓄積が無い分まだ閾値に達していないだけなのかもしれない。自分の身体がどういった状態にあるのかが把握しきれていない。大体誰もそんなものだろう。

それにしても、今日は驚くほど暖かい。仕事柄、次から次へと投げられて来るボールを打ち返す日々であるために、ひと段落も何もないのだが、本日は比較的心穏やかに日和を受け止めている。三年くらい前の暮らしっぷりを彷彿とする過ごし方だ。日がまだ昇りきらないうちに家事という家事を終わらせ、太陽がやっと本気を出してこようというころには自由の身となる。何をするにも自由の幸せを噛みしめるのが好きだ。予定が何もないと、無為にギターを弾き、ピアノを弾き、特に作っても作らなくても変わらないような曲を作る。打ちっ放しにでもいく。予定があれば、約束の時間よりはるか早くに現地に入ってフラフラする。異国の地を踏みしめているごっこがしたいだけだ。


家事を片付けていく際、テレビをつけっぱなしにしておく日と音楽を流す日がある。気分次第だ。今日はテレビをつけていた。日テレ。スッキリ。「オンラインサロンが流行っています」なる特集があった。一人の有名人・著名人のもとに皆がお金を出して集い、コミュニティ圏を形成する。グルメのコミュニティ、面白そうなことならなんでもコミュニティ、ファッション関係のコミュニティ。その他諸々…。従来のような有料ブログとは違い、出資者たちの交流が生まれるのが特徴であるらしい。参加者は少なくないお金を払いながら、自分の趣味趣向へ投資し、合わせて普段の暮らしでは会うことのない人たちとの交流を楽しんでいた。

特集を見てみて、世の中の人の寂しさを感じた。それは、僕も感じているし、誰しもが感じている寂しさなのだろう。

現実世界が「オフ」になって久しい。「オン」の世界は「オフ」の世界なんかよりもよほど広がっていて、日本中世界中の人たちと時差も距離も関係なく交流できる。事実として、そういった環境が整ってしまっているのに、当たり前だけど僕らの生活は「オフ」が主だ。広がり続ける「オン」を、縦横無尽に使いこなせている人も多くない。どこか「オン」には怖さや得体の知れないものがあると感じている。「オン」の万能感と、「オフ」の現実。「オン」の喧騒と、「オフ」の静寂。凝り固まった「オフ」に、ある程度の安心感をもって「オン」の要素を取り入れられるのがオンラインサロンなのだと感じた。寂しさを旗の下に持ち寄っているんだろう、きっとみんな。


中途半端に世界が開けてしまっている。僕らはきっと、リードにつながれながら、開いたドームの屋根を眺めている状態だ。もちろん、ドームの屋根を開けた奴も、リードをちぎってドームの外に出て行った奴もいる。でも、大多数はリードにつながれながら、それはそれとしてリードの経済圏を回し、リードの範囲内で一喜一憂を繰り返す。前まではそれが当たり前だったのに、世界が見えてしまっている手前、自分の存在が矮小に感じてしまう。

すごくわかる。焦る気持ちもわかる。

開いた世界に飛び出すも、分不相応と考えるも、どちらも人生だ。

オンラインサロンや最近のmixiを、リードを緩めるツールとして利用するくらいがリスクもなく楽しいのかもしれない。


歴史は繰り返すとすると、きっと今はひとしきり維新の波が終わり、異国文化が世間に降りてきたころの日本、大正時代のそれに近いんじゃなかろうか。90年代のインターネット勃興期に開いた花のタネが世間に降りてきている。

大正時代は豊かな時代だったとそこはかとなく聞くが、果たして今はどうなのだろうか。

寂しさを認知できたのが幸せか、目隠しされたままが幸せか。果たして。