徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

コーチングを受けてきた

人事屋さんも半年が経ち、全方位砲撃型ミサイルに蜂の巣にされることがデフォルトに、穴が空いている状況にも慣れてきた。一生懸命やったすえの蜂の巣なら仕方ない。

人事も労務管理が今のお仕事なのだが、労働体制や安全衛生が我々のテリトリーのため労働組合の方々とも懇意にさせていただいている。その一環として、「労使手を取り合って従業員のためになる教育の場を設けましょうの会」があり、事務局として色々な先生やら企業と繋いでいる。

上場企業の端くれで、従業員の教育にも一定の予算が用意されている。これ幸いと、著名な方・上場企業の代取など、人生を使って相当な何かを成し遂げている人を招聘している。先月講演頂いた講師の方が大変人格者で、世のため人のため、若者のために自らの経験やスキルを還元したいという考えの持ち主だった。打ち合わせ段階から懇意にさせていただいていたので、折角だからと、先日お会いしに行ってきた。

彼は大きな会社の取締役なので、鵺のような質の持ち主には違いないのだが、ものすごく物腰が柔らかい。偉い人にありがちな「あれ、俺やった」症候群に罹患してもおらず、その昔人事にいたとき、組合と会社の板挟みにあい、公園でブランコに3時間揺られた話を朴訥とする。「辛かったけど、家庭があったからやめられなかったよね。」めっちゃ辛かったと思う。よくもまあそんなケロっとしているものですね。


世間話が対話の趣旨ではなく、コーチングが趣旨だった。

コーチングって何か、詳しくはちょっと把握していない。わかる範囲で誤解も恐れずかいつまむと、アドラー学派で頻繁に行われているらしいセッションで、日頃抱えている問題をガシガシ深掘りしていって、人の深層にある考えを表象させる。クライアントは自分の深層に考えを下ろしていき、コーチはそのハシゴを下ろす。結果、自分の悩み、自分の考えの本質を掴めたら、それに基づいて小さな一歩から踏み出していきましょう。なんか、そんな感じの話だった。


個別、コーチング内容などは置いておき、では概要としてどうかといえば、大変に有益なものだったと思える。

前提として、世の人間は自分のことを考えることを回避している人が多い。問題を直視して、それをガシガシ掘っていくって、自分の一番情けない部分にレモン汁を垂らしまくるみたいなものだ。痛いしやりたくない。僕だってこれだけ書いてきたけど、本質はうまく回避して書いている。そうじゃなきゃ書けない。一方、コーチングします!というおおっぴらに問題直視の機会を与えられ、恥も外聞もかき捨てて自分と向き合えるのは大変にいい時間だったし、効能もあったように感じる。

自分で降りていけない深みにはまり込めるメリットの一方、「その先どうするか」は自分次第なのも事実だ。インドに行って、チベットに行って、ペルーに行って、人生観が変わったところで、それは「観」が変わっただけだ。他人から見て変化があるわけでもなく、動かないと何も変わらない。コーチングも一緒で、考えているだけじゃまったくもって意味がない。一歩目をどこに置くか。本質らしき何かをつかんだ先に、どうするか。それが重要だし、それしか重要じゃない。別に対して悩まないで行動レベルで変えられる人はコーチつける必要はないと思う。でもそういうサイコな人ばかりじゃないから、やっぱりコーチングの意味はあるのだろう。


しかし、なぜこうも動きを変えるのは難しいですかね。

ギターやピアノもそうで、すぐに手グセに逃げる。手グセをどこで習得したのかもわからないが、「いつも通り」「癖」は楽だ。考えなくていいから。動きを変えるにはやっぱりある程度心の力が必要で、それを蓄えたくて皆自分探しの旅とかに行くのだろう。で、人生観が変わって、普段通りの日常を送ると。


バラバラと書きましたが、みなさん、全ては行動です。

行動が考えと結びついているのであれば、考えを変えるのも一つですが、とりあえず何も考えないで行動を変えられるならそれでもいいかもしれません。動き変えてみましょう。人生観変わるよりもよほど変わります。

さて今日も。