徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

アーティスト従兄弟と会った

5年ぶりに従兄弟と会ってきた。名古屋在住、36歳の従兄弟である。僕らの親は4人兄妹で、今日会ったのは一番上の姉の次男。僕は末っ子の長男。ある程度年が離れるのも然もありなん。

彼はサラリーマンをしながら絵を描いている。素人と括られるんだろうけど、趣味が興じまくっていおり、どういう脳みそでどう製作したらこういった絵が描けるのか、傍目では分からない。とても精緻な絵を描く。部屋には画集がつまれており、生活感と製作環境がごった煮になった1DKに住んでいる。一方、僕もそれなりに音楽をやり、一般市民に対しては特殊能力として披露できる水準までやれてきている。僕も従兄弟も、その道に進むにはあと30光年くらいの隔たりがあるとの認識。素人目に見たら強者だけど、業界に入ったら有象無象。似た境遇だ。

絵と音楽。フィールドは異なれど、互いに芸術と括られる趣味に埋没していると、自ずと話しが合う。同じ山に違う登山口から登っている感じだろう。たかが血の繋がりだけど、趣味と話が合う親戚はいいものですね。近くに住んでてほしい。


さておき、話をしていると、なぜ創作をしているかのような話となる。動機とは。創作に向かうエネルギーはどこにあるか。

この度従兄弟と言質が取れた。自分がいいと思っているもの・ことを表現するために創作をしている。言語にブレイクダウンされる前の、漠然とした「良い」を表現するために我々は創作していると。文脈は忘れたが、以前別の友人と、「自分で描いたエロ本が自分にとって一番エロい」みたいな話で盛り上がったことがあるが、まさにそれである。自分がいいものを出力したいという、ジメジメした自意識と自己満足の螺旋こそ、創作の原動力となっている。

音楽だと歌詞と曲の二面があるから、曲は自分の気持ちいい曲を作り、そこに自分の感情を言葉で乗っける。リズムと節の制約をうまく味方につけながら、自分の深淵に降りていき、言いたいこと、表したいことをクリティカルに言う。詞も曲も全部気持ちいい作品が生まれる。自分の曲が一番好き。俺得のための創作。

従兄弟はなおのことストイックで、「自分の良い」を引き出すためには技術が必要だから…と、週40時間を目標に描きまくっていると話していた。狂っている。労働か。しかし、仰る通りで、100メートル10秒で走れる人は11秒でも走れるけど、11秒でしか走れない人は10秒では走れないんですよね。何言ってんだって感じでしょうけど、つまりは、表現したいことを技術的に完全に補完していないと表現しきれないってことが言いたい。そのためには筋トレ的なゴリゴリした練習も必要だと。そう言いながら、従兄弟、めっちゃデッサンしてた。昼夜問わずダビデ像を取り憑かれたようにデッサンしてた。日中、普通に働いているお兄ちゃんが家に帰ったらダビデ像をデッサンしてるのめっちゃ良くないか。良い従兄弟を持ったと思う。いいとして、やっぱこういう努力が必要なんでしょうね。僕も家帰るなりジェフベックのコピーとかをすれば良いんですよね。わかってはいるのだけれど、ギターもベースもピアノもあらゆる楽器がある中で、スキル向上しようったって優先順位が取っ散らかってしまう。別にギタリストになりたいわけでもないし…っていつもいつも逃げている。正面から向き合わなければな。でもやっぱり無理っぽいから演奏は外注したいな。バンドやろうぜ。

また、従兄弟は絵にリソースを投下するために仕事のストレスを能動的に軽減している。これがうまい。自分の得意とするフィールドで労働をして、時間的にも圧縮してたし、技術的にもストレスなく働いているようだった。今の自分に猛烈に足りていない要素である。やっぱり足掻いたところで人間の力って有限で、全部が全部頑張れない。仕事に時間と心の労力を持っていかれてしまったら創作に力が入らないと言うものだ。こればかりは自分じゃどうしようもない。けど、一つの生き方として従兄弟のそれは秀逸だった。サラリーマンは社会的な立場として楽だけど、その庇護の元で世の中で戦う別の柱を建てるのも大切なのだろう。


36歳と26歳、側から見たら漠然とした万能感をいだいている痛い青年2人なのかもしれないけれど、当人たちは至極真っ当に自分の創作と向き合っている。願わくば好きな創作だけを繰り返して生きていきたいと思っている。

そうなるためには、個人的ユートピアを確立するためには、一定程度の社会に自分の吐き出したそれを認めてもらわなきゃいけないし、一定程度の同類を倒さなければならない。修羅の道である。雇用されている安寧のほうが余程楽だろう。でもこればかりはね、趣味趣向ですから。

お互い、創作に精を出しましょうねと契り、別れた。

ほんと、話の合ういい従兄弟を持ちました。感謝。