徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

イチローの引退に感想など抱きようもない

実家の戸棚に眠っているNUMBERの多くは、イチローが表紙だ。渡米しました号、ポストシーズンでいいとこいった号、シーズン262安打おめでとう号。上京してからも、ヤンキースに行った号、マイアミにいった号など、節目節目のイチローを読んできた。


生で引退会見を見ようとしたのだが、見事に寝入ってしまったため、昨日youtubeに上がっていたノーカットバージョンをやっと見た。見逃しに優しい昨今の技術に救われた。


記者からの質問とか、あまり関係のない会見だったように思う。イチローが話を始めるきっかけとして質問が用意されているだけで、イチローはその質問を種に好きに話をするような、フリートークに近い形式での会見だった。

強い奴が勝つんじゃない、勝つ奴が強いんだ。とは、誰の言葉だったろうか。

ルールを守って、結果を出すことが全て。結果を出した奴こそ、強い。過去100年、野球というフィールドに人生をかけた人間の中で、最もヒットを打った男が話す言葉を、僕は全面的に肯定するしかなかった。むしろ、感想をいだくことすらおこがましいと感じた。

1994年から勝つのが当たり前になって(番付が上げられて)プレッシャーが常にかかる日々だったこと、それでも、毎日自分の肉体の限界を少しずつ超える、誰と比べることもできない努力をしてきたこと。契約の折り合いがつかず、神戸でひっそりと選手生活を終える予感がしていたけれど、マリナーズとの縁がまた舞い込んできたこと。全てにおいて、ははぁ…以外の言葉がでない。イチローも人間で、イチローしか感じ得ない苦しみを抱きながら生きている事実にもははぁ…だし、それに飲み込まれながら戦ってきた実績にもははぁ…だ。


一般化しようと思えばいくらでもできる。

毎日に追われるサラリーマンだって、資金繰りに苦しむ経営者だって、雨を待つ農家にだって通ずるように、イチローからみんなへのメッセージとして話を整えて、僕らがそれを受け取ることは容易い。

けど、イチローが話すイチローの苦悩を一般化していいのか。至高のプレッシャーに苦しみながら至高の努力を積んで至高の結果を残してきた人の言葉を、僕らの生活に当てはめて考えていいのか。もう、わからない。


「無粋」「粋じゃない」「野暮」この辺りの言葉を使って、イチローは記者からの質問をいなしていた。それはきっと、イチローが自分の個人的な経験を人に見せることがどういうことかを知っているからなのだと思う。

どこまでいっても、感情は個人的なものだ。

比類する人がいないイチローだからこそそれを強烈に感じたが、同じような仕事、同じような境遇でも心のフィルターの目の粗さは人それぞれだし、感情の残滓から何を受け取るかも、意思の強さも人それぞれ。何一つ一般化できない。ただ、世の中には比類する立場で、比類する圧力に、比類する辛さを感じている人がたくさんいるから、「共感」とかいう便利な言葉で誤魔化せているだけにすぎない。

けれど、会見の終盤、イチローは、最近孤独感を全く感じていないと話していた。

感情は個人的なもので、人と比べられないのかもしれないけれど、そうじゃない、心の別の部分は、人と分かち合うことができる。どうやらそれが、孤独な感情を救ってくれるらしい。


強い奴が勝つんじゃなく、勝つ奴が強い。また強さが正義であるならば、イチローの生き方はイチローにおいて正しい。誰にもケチがつけられない生き方だ。生き方の原石を突きつけられて、僕はどうしていいのかわからない。おかゆのようにぐずぐずに砕かれた安いライフハックではない、極めて特別で、比べるもののない情報を、どう扱えばいいのだろうか。