徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

児童養護施設の子供達と遊んで感じたこと

労働組合と会社と、労使手を取り合ってやっていきましょう事業の一環で、とある児童養護施設に行ってきた。昼頃から夕刻まで、ひとしきり子供たちと戯れ、日頃小難しい話をされることしかない労働組合の急先鋒と共に無邪気な心でエンジョイしてきた。未就学児から高校生まで幅広い年代の子供たちがいたけれど、下ネタから陸上競技から楽器から、僕の持ちうるものを総動員してコミュった結果、どの年代の子ともめっちゃ仲良くなれたと思う。本当によかった。また行きたいです。

 

とまぁそうなんだ、そうなんだけど、児童養護施設の現状をちらっと園長先生ならびに担当の職員から聞いて、思ったことを書き留めておきたい。

以下、記憶にある話。真偽は現在不明。あとで何かしらの資料を読みたい。

大前提として、日本には養護施設が足りていない。

原因として、そもそもの補助金が足りないのが一つ、あともう一つは、国の方針が里親に注力して養護施設は基本的に縮小させていく方針であることが一つ。

また、里親・養護施設合わせて現在3万人程度の児童を養護しているが、その大半が虐待・ネグレクトであり、本来的な目的である支援のような建設的な事由での養護は少ない。なぜなら養護するためには親子双方の同意が必要であり、そのハードルが極めて高く、そもそもの受け皿の数が足りていなくてケアしきれていないことがあると。

お金がないのはさておき、なぜ国は里親を推進しているかといえば、学者一派が出した見解として、「子供はできる限り家庭に近い条件で養育されるのが望ましい」というのがあるらしく、そうした学識に則った結果であった。当たり前だが、養護施設の方がプロのケアを受けられ、大勢の児童を養護できる訳で、養護施設側からすると国の方針は実態に即していない部分が大きいらしい。

 

なるほどなぁと思った。

施設側の意見として、この状況が一定程度正しいとすると、確かに国からお金が出て、もっと施設にマンパワーと資本を注入できれば、今隠れて虐待を受けている児童や、虐待にはならずとも支援の手を待っている家庭に手を差し伸べられることとなる。

実際金銭面での劇的改善が難しい中で、じゃあどうするかという話なのだろうが、一番求められるのは、子供当人の幸せである。これは間違い無いと思う。学者の意見が正しかろうが正しくなかろうが、子供自身がその時を安寧に落ち着いて過ごし、今この時の生存を懸命に求めるのではなく、ある程度未来・将来まで見据えて人生を捉える余裕が与えられること。希求されるのはこれだ。

そうした環境を作るためにどうするかだけれど、それは学者がどうだから、国がどうだからではなく、児童本人と、本人に親しく接している職員や家族、そして、やはりその道を究めた学者がスクラムを組んで考えていくものであり、少なくともトップダウンで識者がえいやと降ろしていいものではないと感じた。

とは言っても、国は国の論理があるだろう。いちいちヒアリングかけてられないのもわかるし、金はかけていられない。里親を推進するのも、体裁は家庭環境に…という論理だが、本音はハード面での投資が少ないからなのかもしれない。本質的な改善を求めるために民意を集めて!なんて話になりがちだけど、そこまで行ったら政治の話になってしまって全く本質とはずれていく。

 

難しい。

今日触れ合った子供達、そして彼らの今とこれからを真剣に支えている職員。彼らの意気こそが、本当だと思うし、それが活かされなければ嘘だ。

僕は今サラリーマンで人事屋さんである。

だから、目の前のお客様を喜ばせる人たちが働きやすいような仕組みを一生懸命維持して、作って、現場でお客様が大変に満足し、結果会社にお金が集まり、その一部が法人税として国に回り、国の予算委員会か何かで結集した税金の行方が厚労省マターに振り分けられた先に、ようやっと今日の施設がある。

拡大解釈も甚だしいしややこしいけど、確かに僕の日常と彼らの日常は繋がっている。僕の一生懸命は、彼らの一生懸命を助け、彼らの一生懸命が僕の一生懸命を支える。

 

泡沫の勇気ややる気じゃ世界は変わらず、人口減少フェイズに突入した日本において黙っていたら劇的に福祉が良くなるとか経済が大回転することは確実にない。しかし、この末端で、肌で感じた楽しさと子供たちを支える厳しさは本当で、どうにかするにはまず目の前のことをやっていくしかないのも本当だった。

遣る瀬無さのうちに、明日も頑張って働く。