徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

飲みに行こうね

幾度、この言葉を放ち、幾度、この言葉で契り、幾度、放りっぱなしにしてきたことか。死後、閻魔大王に舌を引きちぎられるとすれば、その責は飲みに行こうねの一言にある。可能な限りな誠実を誓ってはいるし、飲みに行こうねと口に出した時には本気で飲みに行きたいと考えているものの、どうしたことか、どういうわけか、実現する宴席はごくごくわずかであり、それを嘘つきと言われれば言い訳のしようもない。

みんな人と会うのが仕事ではない。仕事をしながら、日常を転がしながら、たまに会いたい人がいる。しかし何より大切なのは日常であり、日常の余剰分を使って誰かと飲みに行く。飲みに行こうねの主体は、1人ではなく、2人以上となる。だから、お互いの日常の余りを持ち寄って、初めて飲みに行くことができる。そう考えると、飲みに行くという行為自体が奇跡のように感じる。滅多に実現できることではない。

でも、僕らは簡単に口に出す。飲みに行こうね。便利な言葉なのだ。あなたのことを大切に思っていると、それとなく伝えられる言葉なのだ。あなたに、私の日常を、割きます。割きたいです。たった一言で、そこまでの意が伝えられる。その場では行こう行こう!と盛り上がり、翌々日あたりには、密室のロウソクの火のように、酸素が足りなくなって静かに消えていく。「あなたのことは大切で、あなたと会いたいとは思っているけど、日常を割くほどのアレではないので、ごめんなさい。」これが、飲みに行こうねの正体だったりする。

優しい嘘ではないか。なんと、優しい嘘だろう。飲みに行こうねが実現して、それが日常になることもある。僕とあなたの、彼と彼女の、ほんの少しの日々の余りを、持ち寄る気持ち。ほとんどが嘘だとしても、幾ばくかの真実がそこにはある。


たくさん、飲みに行こうねと言って、何も動いていないので、懺悔の気持ちがいっぱいです。

でも、日常も大切なのです。

いつかはきっと飲みに行こうね。