徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

元号が変わるくらいで人間は変わらない

こう、文章を度々書いていると、自分にまつわるあれそれを客観視できるという。文章は自分の分身みたいなものなので、わからないでもない。ただ、本当に辛いとか、本当にきついとか、身に迫ることはなかなか書けたもんじゃないから、苦しみは心の隅の方に巻きついたままでいたりする。

 

かつて、お悩み相談をやっている人間は悩みがあるのかと考えたことがある。競馬の予想屋が競馬当てられるのかみたいな話。どうせお悩み相談員にも悩みがあって、どうしようどうしようとオタオタすることがあるはずなのだ。昼間はラジオで人の悩みを聴いているお悩み相談員が、夜は居酒屋に入って友達なのか居酒屋のマスターなのかわからないけど、自分の悩みを相談する。相談された、お悩み相談員のお悩み相談員はそれらしく話を聞く。で、またその人にも固有の悩みがあって…とこれが無限に繋がっていく。

と、思えばである。

大体の苦しさとか、悩みとか、そういうものは自分のことであるからして辛く、人ごとだと冷静に考えられる。自分の家庭がこじれたらめちゃめちゃ苦しいが、人の家庭がこじれたところでそれは酒のつまみか昼ドラのネタにしかならない。ましてや相談されていけしゃあしゃあと偉そうな返答までしてしまう。

 

社会は大変なことに溢れている。忙しいのも大変だし、暇なのも大変だ。仕事が終わらないのも苦しければ、社内ニートも苦しいだろう。お金がないとか、会社で責められるとか、様々悩みはあれど、それで死ぬわけじゃない。死ぬときは死ぬから死ぬわけだ。死ぬ以外の理由で死ぬのは悔しい。冷静に考えて逃げ出すのが得策だと思えば逃げ出せば良いし、冷静に考えて戦うのが得策の場合は戦うが良い。やべーなって時こそ、ひとまず自分の人生を自分から切り離して考えてみる。

どれだけ客観視して、自分の人生を俯瞰してみても、最後にやるのは自分であることに変わりはない。どこまでいっても人生は人生でしかない。けど、その手段を考えるときや判断に迷った時の材料として、人生を切り離すのは効果がある。「どうしよう」には「こうした方がいい」という手段が必要だ。「困った」には「どうしたの」と聞いてあげる必要がある。人に話しても如何しようもない、人に話せないほど辛いことほど、自分で手段を差し出し、自分で悩みを聞いてあげなければならない。自分の苦しみからはどうやったって逃げられないし、一定程度苦しみ抜く。でもぶっちゃけ苦しいことに苦しんだって何も生まれない。だから、客観視を決め込んで、人の人生を眺めているつもりで冷静に対処していくというのは処世する中で必要らしい。

 

怪我をしない奴より、怪我をしてから立ち上がった奴の方が強い。0勝0敗の人間より、0勝100敗の人間の方がまだ強い。たくさん打席に立って2割5分の選手はスターだ。社会は極真空手やギアなしのボクシングに似てるけど死にはしない。お天道様に背くようなことをしなければ、社会的な死すらも死じゃない。たくさん戦ってたくさん負けてどっかで勝ち星拾えたらめっけもんくらいな気持ちでやっていく。そのステージそのステージで苦しみはあるでしょうが。やっていきましょう令和。