徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

銭湯の音

風邪が快方に向かうとともに、鼻水が止まらなくなっている。ロサンゼルスから友人がやってきていて、昨晩、品川で飯を食ったのだが、途中から滝のように鼻水がでて、歓待もへったくれもない状態になった。申し訳ない。


しかし、熱っぽさはあらかた改善されたため、この休みに銭湯に行った。大田区は銭湯だらけの街で、蒲田近辺にもごまんと銭湯がある。閉店した湯も多いようだが、それでも他の地区よりはよほど多いと聞く。

丸一年と少し前、2017年も終わりに差し迫った頃、やはり僕は風邪をひき、荒療治を称して銭湯に通った。患うとお湯に浸かりたがるらしい。しばらく前の記憶だが、あの湯も良かった。普段体育座りをしてやっと浸かる湯船。銭湯の大きな湯船、なみなみと注がれた熱いお湯に、足を伸ばし悠々と入るのはどうしたって気持ちのいいものだ。心臓が脈打ち、血液がグルングルン回り、体温の上昇とともに汗が吹き出る。溜まり溜まった体内のゴミが汗腺から出てくる。これがデトックスというのだろう。ホットヨガも同様の体験が得られるなら、そりゃ流行るに違いない。


はたして、今日の入浴の話である。

京急蒲田にほど近い場所にある銭湯。我が家から自転車で5分。なんの変哲もない、いたって普通の銭湯。中ぐらいの湯船がふたつ並んでいる。壁面には富士の嶺。やはりお湯はしんしんと熱く、浸かってしばらくすると心臓が本気を出してくる。

こんな経験はないだろうか。

音楽を聴きながら勉強をしている時、勉強に集中すると音楽が全く気にならなくなり、逆に音楽に集中すると勉強に身が入らなくなる。よほど器用な人でない限り、人間は一つのことしか集中できないようになっているらしい。

お湯に浸かり、目を閉じ、自分の鼓動と血行を感じている時、他のことはもう何も気にならなくなる。お腹が空いたも、眠いもない、ただ、身体の循環、今、ここにある生しか気にならない。気が散ったとしても、そこに響くのは湯が流れる音だけだ。

北国では、吹雪の日にホワイトアウトが起こる。前後左右を猛吹雪に見舞われると、今自分がどの方向に向かっているのか、煙の中のように全くわからなくなる。

同じように、銭湯の中では、音のホワイトアウトが起きている。湯の音が浴室に広がり、跳ね返り、全方向からけたたましい音が鳴る。目を閉じると、自分がどの音を聞いているのかわからない。大瀑布のほど近くにいるような錯覚にすら陥る。さらに湯船に身体を投げ出すと、五感のあらかたが宙に浮いたように感じる。本当に気持ちのいい時、人は何も考えられなくなるのだろう。無に夢中になり、無に集中する。

熱さに負けて湯船のヘリに腰掛け、しばらくしたらまた入る。繰り返しているうち、太古の海に想いを馳せていた。海にしか生物がおらず、陸には植物しかなかった時代。両生類か爬虫類か魚類かわからない、肺を持った生物が海から始めて這い出した時、果たしてどんな気持ちだったろうか。なぜ陸を目指したのか。海に天敵がいたのか。陸地というブルーオーシャンを我が物としたかったのか。わからない。しかし、陸地への偉大な一歩があったからこそ、今の人類までつながる壮大な命のリレーが繋がっているのだ。

冷めたら入り、のぼせそうになったら腰掛ける。

考えているとわからなくなる。僕ら人間は万物の霊長を拝命している。立派すぎる、身に余る称号だ。よくもまぁ自分たちで霊長とか言ったものだ。でも、事実、僕らは考え、知恵を振り絞り、生存競争に勝ってきた。牙でも爪でもない、脳みそを使って食物連鎖の鎖を千切った。であれば、考えることが人間の使命であり、生存の掟であると言える。でも、お湯に浸かったり出たりしてると、こうしていることこそ生物らしいのかもしれないとも思えてくる。裸で水に入ったり出たり。生き物だ。これぞ生き物だ。知恵を絞るのが人間であれば、お湯に浸かるのが生き物。人間に疲れたら生き物に戻ればいい。人間、生き物では長くいられない。どうしても、人間になってしまう。その時にはまたいそいそと人間を始めたらいいのだ。

お湯に浸かったり、出たり。出たり、浸かったり。


ガラガラだった銭湯も、少しずつ人が増えてきて、僕は我に返って浴室から出た。火照った身体には赤いまだら模様ができ、日頃の血行の悪さを物語っているようだった。

番台でポカリを買い、飲みながらこれを書いている。

やっぱり、さっきまでの生き物は人間となった。