徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

映画「クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン〜失われたひろし〜」の感想を綴ります

観ました。

www.shinchan-movie.com

 

経緯という経緯は無い。時間が空いて、映画をなんとなく見ようかなと思い、その時間にたまたまやっていたのがクレヨンしんちゃんだったから。それだけである。ゴールデンウィーク初日の映画館はママ友と子供たち、家族づれ、少年少女たちの団体で溢れ、いい歳した青年が一人クレヨンしんちゃんするのは酷く特異に映ったことだろう。しかしそんな瑣末なこと気にしていられない。なぜなら僕は時間が空いて、なんとなく映画を見ようと思ったのだ。映画館に行くのに他に理由がいるだろうか。ゴールデンウィークだからって、家族連れだけが映画館にいける資格を持っているとでもいうのだろうか。否、映画館の門戸は誰にでも平等に開かれている。お金さえ払えば、1800円さえ払えば、クレヨンしんちゃんだろうがプリキュアだろうがアイマスだろうが、僕らは映画を観られるのだ。だから僕は胸を張り、顎を引き、振る舞えうる限り堂々とクレヨンしんちゃんの半券を受付に差し出し、可能な限りスマートにシアターまで歩き、最高にキザに着席、足を組んで、開始を待った。受付の人の怪訝な顔、僕が着席した時、両サイドに座った家族連れが放った若干の違和感を僕は知っている。が、知ったこっちゃない、クレヨンしんちゃんは皆に開かれているのだ!


そんなことはどうでもいい。映画の話である。

クレヨンしんちゃんの映画が好きな人を僕は多く知っている。「オトナ帝国の逆襲」「ヘンダーランドの大冒険」この二作は傑作だと聞いていて、確か僕も観た記憶がある。詳細までは覚えておらず、記憶に定かではない。

元をたどれば少年時代、実家のテレビは地域柄もありテレビ朝日の写りがとてつもなく悪かった。ほぼ砂嵐に近い写りのテレビ朝日を前に、僕ら家族はMステもドラえもんもない生活を強いられていた。もちろん、クレヨンしんちゃんも映らなかった。幼いころクレヨンしんちゃんをちゃんと見た記憶がない。だからそもそもクレヨンしんちゃんへのコミットがものすごく弱い人間なのだ。アニメにコミットしなければ、映画も然もありなん。

 

上記の通り、環境的にはアウェイだった予備知識もヨレヨレのままの鑑賞だったのだが、クレヨンしんちゃんは全く侮れなかった。素晴らしい映画だった。

 

今回は夫婦の愛をテーマにした作品。ひろしとみさえ。つまりしんちゃんの父と母が旅行中の大冒険を通じて、改めて夫婦の絆に気づく。

本線はあくまで夫婦の話なのだが、この作品はもっと多様な楽しみ方ができる。野原一家が持つ、物語へのアプローチの多様さが見事に光った作品だった。

 

クレヨンしんちゃんを語るにつき欠かせないのが野原一家の存在だ。

父ひろし

母みさえ

長男しんのすけ

長女ひまわり

ペットシロ

四人と一匹。春日部の一軒家にすむ何処かの会社の課長さん一家。この登場人物構成が、クレヨンしんちゃんの妙である。

今回の映画の内容詳細は割愛するが、作中の面白ポイントは以下に集約されると思う。

・ひろしとみさえの夫婦愛

・ひまわりを守る母みさえの強さ

・しんのすけの下ネタ

・一家総出のアクション


子供は映画にわかりやすい面白さを求める。おならで笑い、うんこで笑う。そう、下ネタ。普段隠されているもの、恥ずべきものが解放された時の面白さは、万国共通、全年代共通だ。シンプルな笑いと言えるだろう。

一方、大人は映画に現実からの逃避と感情移入・共感を求めがちである。相反する内容ではあるが、アクション映画は前者を、ヒューマンドラマは後者を満たす存在であると言える。

破天荒な幼稚園児しんのすけを自由に動かし、子供たちのわかりやすい笑いを喚起しながら、ひろしとみさえの夫婦愛と、母・みさえの強さを魅せることで、大人の共感を生む。さらにアニメ映画ならではのアクション。本作では舞台となる「グレートババァブリーフ島」に伝わる伝説を巡り、野原一家・トレジャーハンター・原住民の仮面族、三つ巴になったひろし争奪戦が繰り広げられる。予定調和の結末を迎えるとしても、派手なアクション、ハラハラドキドキは面白い。改めて噛み締めてみるとグレートババァブリーフ島って名前もめちゃシュール。

こうしてみると、家族にまつわるあらゆる切り口から物語を紡げるのがクレヨンしんちゃんの強みであり、野原一家が野原一家である限り面白い映画が生まれ続ける。恐ろしい一家だ。


綿密なマーケティングは作中の挿入歌にも現れている。

 本作には二つの大きなクライマックスがある。

一つは、グレートババァブリーフ島到着初日の夫婦喧嘩のあと、ひろしが一人レストランで酒を飲みながらいつも持ち歩いている家族写真を見返し、みさえと付き合っていたころや新婚の頃を思い出すシーン。新鮮な当時の気持ちを思い出し、みさえに花を買って駆け出す。

この時の挿入歌が、福山雅治のHello。

もう一つは、囚われのひろしを奪還すべく、みさえが原住民を駆逐しながら突き進んでいくシーン。

この時の挿入歌が、MISIAのeverything。

おわかりいただけるだろうか。1995年のヒット曲と、2000年のヒット曲。当時の小中学生が今のパパとママだ。クレヨンしんちゃんの皮を被ったエモ。見た目は子ども、頭脳は大人とはクレヨンしんちゃんのことだったか。確実に両親に刺さるような選曲をする狡猾さに震えた。

さらに畳み掛けるのが、主題歌である。歌うのは今を輝くあいみょん。少年少女たちが大好きであろうあいみょんだ。もはやこの映画、全身凶器である。曲ですら全方位に向けて殺しにかかっている。


さらに夫婦愛と並び立って強く込められたメッセージが、母の強さだった。

みさえは、娘のひまわりを抱っこ紐で抱えながらオムツとかが入ったリュックを背負って、ひろしを奪還しにむかう。前には赤ちゃん、背中にはリュック。お母さんの標準装備を常に抱えて、グレートババァブリーフ島の密林をかき分けていくのだ。時にはおっぱいをあげ、時にはオムツを替えながら。ひろし奪還にはトレジャーハンターのインディ・ジュンコが同行する。みさえやしんのすけとは全く異なる、財宝を目的にしてひろしを追っているため、当初は全く協力的な様子は見せないのだが、みさえの強さ、母の強さを目の当たりにする中で、徐々に心を開いていく。インディ・ジュンコの心が動くのもよくわかる。みさえは強い。子供を守る母は強い。トレジャーハンターという、常に宝を探し続ける人間ではなく、すでに守るべきものを持つ人間の強かさが対照的に映されていた。

それにしても、作中に散りばめられた「ママあるある」の量たるや相当なものがあったと思う。ひろしが主となった旦那に対する共感ポイントよりも、みさえが主となった妻・母への共感ポイントをより多く突っ込んでいる。客層の把握が完璧だ。やばい。



小気味いいテンポで展開されるストーリーを追いながら、僕はファミレスを想起していた。

ファミリーレストラン。家族のレストラン。洋食も和食も中華も、ソフトドリンクもお酒も。居酒屋にもレストランにもなる、あの懐の深さ。クレヨンしんちゃんはファミリーレストランなのだ。しかも、ファミレスほどピントが散っていない。何でも屋さんだが、器用貧乏にはならない。今回は明確に夫婦愛と母の強さに焦点を当てているが、おそらく、作品ごとに主題を微妙にずらしながら製作しているのだろう。

それもこれもすべて、普遍的な「家族」のなせる技だ。「家族」の器に何を注ぐか。家族写真の、家族の歴史の、どこに焦点を合わせるか。それによりけりで、物語はいくらでも広がり、あらゆる人の心に寄り添うことができる。


映画はもとより、クレヨンしんちゃんがキラーコンテンツすぎて恐怖を覚えた。30作近く映画作品を作ってもなお、この面白さだ。

時間が空いていたら、いや、時間を作ってでも、観て損はない映画だ。ゴールデンウィーク、暇を持て余しているのであれば、家族連れに埋もれながら見てみてほしい。そして、会場の気まずさと映画の巧妙さを語らいましょう。

以上です。