徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

平成と天皇

平成最後の、平成最後のと、ここ数ヶ月で猛烈に喧伝されている。そうして、平成最後の日曜日とか、平成最後の朝とか、だんだん平成最後が切迫してきて、いよいよ平成最後の夜を刻々と刻んでいる。

今の今まで、平成が終わることに対しては特に感想も抱いていなかった。けどどうだ、30年続いたものが終わっていく、しかもそれが全国民が共に生きた時代が終わっていくと思うと、いよいよになって寂しさが湧き上がってきている。

 

日本人であれば一度は、天皇とは…?と考えたことがあるだろう。時には政治の長であり、時には軍の長だった天皇は、昭和から平成にかけて、象徴となった。

平成、こんなことがあったねという振り返り番組が傍で流れている。昭和以前の天皇の方が実権は圧倒的に握っていた。けれど、象徴としての天皇が作った時代を見てみると、変に実権を握り、政治に関与していない方が、国民としては時代を共に生きたように感じるのではと思った。僕も平成始まってから生まれているので何をいえた口じゃないのだけれど。

政治が切り離されて、具体的国の方針の評価対象から天皇が外れたというのは、天皇を時代の象徴として捉える側面においては大きいように感じる。いい施策、悪い施策、諸々あるだろうが、それで印象が左右されることがなくなるから。一種冷静に象徴を見つめることができる。

この間日本橋高島屋で天皇即位30年の展示を見てきた。皇室の、いや、天皇の、個人的なアルバムやクローゼット、食器棚の中を見ているような展示だった。人生が時代なのだ。天皇は。天皇の生き方がそのまま時代を映す。そして時代をいずれ名乗る存在として、象徴然として生きた今上天皇、明日からの上皇は、実務から離れ、祈り、国事行為に専念し、国民に寄り添った。優しい人で、優しい時代だったのだろう。

 

このあり方が普通になった次の時代は果たして。

どんな天皇が、どう時代に寄り添うのだろうか。