徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

えにし

結婚式があり、この土曜日に行ってきた。

大学の同級生同士が結婚したのだが、新郎に対しても新婦に対しても、それぞれに死にかけの巨大恒星ほどの思い入れが同じくらいにあって、我が事のように喜んだ。何しろプロポーズにも立ち会い、婚姻の証人にもなったのだ。メモリーから行政まで。滅多にないえにしの深さである。


これまで参列した結婚式や披露宴は、仲が良くなればなるほど飲酒の様相は深まり、瓶ビールがルクソールあたりのオベリスクのごとく突き立てられ、紅白のワインが満ちては欠け、記憶が欠け、気付いた時には朝なんてことが往々にしてであった。しかし、此度の宴会は違った。僕が大学生の頃。そう、それは年に数回の酷い深酒以外は飲酒をしなかった極めて潔白な時代。当時に良く良く付き合った友人同士の結婚だ。極論、酒など必要ない。嗜む程度に口にしたが、その程度である。

確かな自分で臨む披露宴。えにしの深さも相まって、感動した。涙腺に直撃するような感動ではなく、一つの家庭が生まれる節々に、自分が関われた事実を噛み締め、じわりと味がしみ出すような感動だった。それはきっと、僕たちの人間関係をそのまま表したような感動だ。ドラマティックな出来事が特別にあるわけでなくとも、くだらないやりとりがたっぷり詰まった歴史の地層の断面をゆっくりと振り返ったとき、激情は起こらない。よくもまぁこんなに歴史を重ねたなぁ、くだらないことを積み重ねたなぁ。そんな気持ちがじんわり滲む。

三次会までのロングランではあったものの、どの会もやっぱりどこか日常の延長のようだった。あってもなくても変わらないけど、どこまでも面白い話で笑い、だれも肩肘張らず、だれも寂しい思いをしない。ユートピアのような空間。


かのSF作家、アイザックアシモフはこう言ったそうだ。「人間は無用な知識を喜ぶ唯一の動物だ。」無駄なこと、無意味なこと、生産性のないこと。そういう意味で、2人が作る空間というのは人間らしくて、高尚な空間なのだろうと思う。

少し時間が空きましたが、やっぱり、おめでとう。