徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

人間らしさと優秀さと

盲腸が短くなったり、体毛が薄くなったり。人間の進化は現代においてもそろりそろりと進んでいるらしい。僕は親よりも身長が高いし、僕の子供がどうなるかはわからないけど、僕の遺伝子をうまく注入できたなら、ある程度身長は高くなるだろう。平均身長はグングンと伸びる。何十万年とかけて、四足歩行から二足歩行に進化してきた人の歴史。新生代の奇跡である。

本質的に考える。クリティカルに考える。なぜを繰り返す。社会の荒波に溺れがちな社会人たちは苦しみながらも、藁をも掴む思いで、よくある自己啓発本に手を出す。優秀極まりない人たちの書いた思考法の船に乗って、トライとエラーを繰り返し、転覆したり遭難したりしながら、思い思いのキャリアを描く。人口減少と生産年齢人口の減少を目の当たりにしている僕たちは、嫌が応にでも資本と労働のエブリデイをワークワークせずにはいられないのだ。

はたと思う。なぜ、今になって本質的に…みたいな話になっているのだろうか。そもそも本質って何よ。

動物に思いを馳せてみよう。奴ら、相当本質的である。種の保存という絶対かつ最大の目的に向かって一目散に飲み食い、つがいを見つけるべく鳴き踊り、目的を果たしたら程なく生命を終えていく。その連綿たる歴史に何の意味があるのか、なぜ種の保存に突き動かされてしまうのか、分からないままDNA。本質に生きている。

一方僕ら人間、あわよくば猿、哺乳類。

感情をもち、泣いたり笑ったり。言葉をもち、話したり聴いたり。進化とともに僕らは複雑性を獲得してきた。この複雑性こそ人間の人間たる所以、真骨頂なのだ。つまり、進化とともに、本質から離れてきた。これが、僕たちなのだ。世に言う優秀と言われる本質マンたちは、本能じゃない部分で本質に迫る。世のあらゆることについて、動物的に考える。進化を振り切って退化しているような人間たちが、資本の波を乗りこなしている。

人間は面白いほど、色々な方向に進化しているものだ。

そうした動物的な感覚に優れている人が社会に評価される一方で、才能があると呼ばれる人たちは、芸術のように複雑性を研ぎ澄ませて、人間のもっとも人間らしい部分に訴えかけることで承認を得たりしている。そうした多様性も人間社会ならではなのだろう。ダイバーシティダイバーシティ。

 

これまで、頭を使って生存競争を勝ち抜いた人間は考えなきゃ人間じゃないと考えていたけど、そればかりが人間でもないな。いろんな人間がいることが人間なんだろうな。

なかなか晴れない梅雨時の夜半。

お疲れ世の中。