徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

かもわからんね

北海道。日本地図の北の端に燦然と輝く島であり、区分けが面倒だったのかわからないが、島を丸ごと自治体とされてしまっているどんぶり勘定な土地。旅行先にはうってつけであり、ルスツとか札幌近郊のスキー場辺りでは中国マネーが流入したり、オーストラリアからの観光客でごった返したり。ひとたび根室、稚内に目を向けるとロシア語が散見されたり。国際色豊かな土壌ともいえる昨今ではあるが、その歴史は大変浅く、江戸の後期に松前藩が函館辺りに置かれてから近代の歴史が始まり、主だった資本流入・人口流入は明治に入ってから。つまり、ここ120年くらいが北海道の歴史だ。

函館・札幌方面は東北から、太平洋側・オホーツク海側は四国近畿から入植した人が多いと、どこかで聞いた。わが家計も類に漏れず関西の血だ。原住民アイヌを横目に、大和民族内で混血を繰り返した後の北海道民たち。文化的にも様々な地域の文化を食いつまんでいて、確固たる、土着の、誇り高き文化は特に存在しない。文化ノンポリな北海道である。

 

とはいえ、北海道弁は存在する。

以前当ブログでも、「北海道弁独特の緩さは異文化交流の中で敵意を示さない様間延びしていった結果である」と考察したが、本帰省でも独特の緩さは如実に感じられた。

「そうした方がいいかもわからんね」

「だめさ~、そやったらこっち当たっちゃうしょや。もっと手首使って打たんと。」

「なしてそっち飛んでいくかね」

「水飲むかい。いらんかい。水のまんと脱水なるよ。」

全て、ゴルフの練習ならびにラウンド中の一幕である。できればボイスメモで貼り付けたい。

 

特に「かもわからんね」「かもしらんね」は多用するのだが、無責任さったらない。

東京で行ったら、「〜だと思う」と言うところ、自分が思うとも言わず、「わからん」で濁している。頭には「かも」がついており、すでに濁していると言うのに。もちろんイントネーションはゆるい。なんしたって緩い。

 

北海道を離れ10年近くになる。北海道弁を北海道弁として認識できたのは上京してきてからだった。北海道に訛りはないよ、ほぼ標準語だよ、とは良く言うが、全くそんなことはない。一語一語のイントネーションが立派に北海道弁で柔らかいし、どこか間抜けだ。

カリカリと生きていかねばならない都会の暮らしに、北海道のイントネーションは瑞々しく映る。オアシスのようである。

うまく北海道のイントネーション使って行った方がいいかもわからんね。