徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

不安感が妨げるあらゆること

喜怒哀楽とさまざまな感情が渦巻く浮世ではありますが、あらゆる感情をして、最も厄介な感情だと思われるのが、「不安」ではないでしょうか。なにしろ大安が良い日なのです。不安がどれだけ厄介なそれかお分かりいただけるはずです。

一般的な感情をお持ちの皆様であれば一度は不安に直面したことがあるでしょう。一度なんて生半可なことではないかもしれません。毎日、毎日、不安と戦っている方も多いと思います。どう折り合いをつけていますか。言ってしまえば、世に言うストレスなんて全部不安に繋がっているような気がしています。不安との向き合い方はすなわち、ストレスとの向き合い方に等しいのでしょう。


不安の何が面倒臭いかというと、読んで文字のごとく、ことごとく安を揺るがしていくことにあります。

不安のタネは日常で生まれます。いざこざ、やりきれなかった仕事、責められた人間関係。日々のあらゆる塵芥が溜まった脳。これが、不安の原因です。忙しない日中には気づかなかったあれこれが、安らぎの時間に限って栓を外したかのように溢れ出てくる。そうして、安が妨げられ、不安に陥ります。

不安は大抵、不安のその時にはどうすることもできません。なぜなら、タネは日常にあるからです。どうにかできるのは、翌日だったり、どうにもできなかったりします。


不安との付き合い方には大きく分けてふた通りあります。おわかりの通り、不安から目を背けるか、不安と戦うかです。

先述しましたが、不安の真っ只中では、不安と戦うことはまずできません。すると、不安の渦中にいるときは不安から気を散らすしか方法がなくなります。

不安なことを考えていると、心が苦しくなる。頭がいっぱいになる。そこから目を背けるということは、悲しく辛い景色を見ないようにするために、目隠しをすることに似ています。

また、根本的に不安を退治するためには、不安の根っこに向き合う必要があります。それは、この上なく苦しく、自分でどうこうなる問題ではなかったり、時間経過ですら解決できるかわからない問題だったりします。でも、戦うしか不安を根こそぎ退治する方法はありません。

多くの人は、この二つをうまく使い分けながら生きているのだと思います。


窮地は、戦う力がなくなってきたときに訪れます。

戦うのには、心の力が必要です。問題と向き合い、解決するのですから、それ相応の覚悟を持って挑むこととなります。

力果てて挑めなくなったとき、人は目隠しをする以外に不安に向き合う術がなくなります。目隠しをしても、不安は目と手の隙間に入り込んで眼に映る。目を瞑る。でもまぶたに映り込んでくる。目を潰す。脳裏に映る…いたちごっこです。

実際には、目隠しをしたり目を瞑ったりはyoutubeとかになるのでしょうが、本格的にしんどくなると何にも向き合えなくなります。目潰しするわけですからね、何も見えなくなる、何もできなくなりますよね。


しかし、世の中には心の力がめっちゃタフな人とか、戦いがそもそも得意な人がいて、そういう彼らがサバイブしていきます。かくいう僕も、たくさん不安にぶち当たって、自分が陥る不安を少しずつ解読してきた人生ですので、人なみ程度に不安を理解し、戦ってきています。

いつまでたっても、心の戦、戦です。


不安に対してどうすればいい、こうすればいいなどいう話は、個別具体的な話でしかなく、それぞれ頑張ろうでしかないと思いますので、僕も僕の不安をやり込める戦いをやっていきます。

グッドラック。