徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

同じ本を何度も読むということ

みなさま引っ越し経験はございましょうか。僕は3回ほどあります。上京時に一度と、都内でうねうね二度引っ越しました。引っ越した際、都会であれば駅までの道を覚えるところから始めると思います。最初は駅と自宅の点を線で繋ぐだけの2次元の道が、コンビニやスーパーやご飯屋さんを求めさまよい、結果、平面として地理を捉えていく。これが見知らぬ土地で道を覚えるあらましでしょう。

幼い頃、僕は本を繰り返し読むのが好きでした。今はそんなに読みませんが、当時は暇さえあれば勝手知ったる本を読んでいたものでした。「へんないきもの」が大好きでしたし、「21世紀子供百科」や「ギネスブック」、「四大文明」という漫画で四大文明の概要を追える本を腐る程読みました。漫画だってそうです。「ドラゴンボール」は何ページに何が書いてあるまで記憶しましたし、「ヒカルの碁」も何度も読み、「こち亀」はいくつかのスペシャルエディションを穴が開くほど読み返しました。

道を覚えることと何度も読むことはすごく似ています。少なくとも、似ていると感じています。同様に、旅先で観光地までいくことは、新書で知識を仕入れることに似ています。なんとなくお分りいただけましょうか。

何度も読み、文章の流れというか書かれ方を身につかせる。すると、自分でもそのような書き方ができるようになるし、したくなります。それは駅から家までの道を何度も辿ってスイスイ歩くのと、とても似ているのです。

僕の文章は多分、当時読みふけったいくつもの本に由来しています。あの頃、何度も三島由紀夫を読んでいたとしたら、僕の文章や知識は飛躍を遂げていたかもしれませんし、僕自身は割腹をしていたかもしれません。

今もたまに本を買って読むのですが、どうしても知識を仕入れるだけの読み方となってしまいます。これがとても悲しいのです。youtubeやテレビで新しい刺激を受けることに慣れてしまい、何度も同じ知識をなぞって体で会得するものに対しての感度が低くなってしまっているのだと思います。我が家の本棚にはあふれんばかりに本が詰まり、棚板はしなって、今にも落ちそうな状況なのですが、そういうわけで、たくさんの本たちはそこに鎮座して動きません。僕が、動かしてあげられていないのです。

毎日たくさんの刺激を浴びて、嬉しかったり苦しい思いをして、家に帰ったらなんでもない動画をみて、日が暮れていく。それは、目的もなく出かけて放浪して帰ってくるだけの外出に過ぎないように思え、やはり悲しいです。

また、スピード感を求められる社会において、反復の上でのんびり会得していくことに重きは置かれていないように感じます。僕が50往復して覚えた道を、5往復で覚える人がいる。すると、僕の反復はほぼ意味のないものとなる。同じ5往復で終えようとするものの、何一つ覚えられずに次のステージで走る…みたいなことが往往にして発生している社会です。一回言ったことは覚えなさいって、なんて恐ろしい言葉でしょうかね。

一昨日は帰り道に渋沢栄一が書いた本を買ってきました。資本主義の父、日本の会社の父です。果たして僕は、何度この本を読むでしょうか。積んでおいてある本も沢山あります。何度、それらの本を開くのでしょうか。

費用対効果は費用のカットに目を向けたくて使われる言葉ですが、今こそ、効果に目を向けて、効果を出すだけの費用をかけてやりたいなぁと、考えています。

以上です。