徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

大家さんが亡くなった

2011年の春が始まる頃。日本列島に読んで字のごとく激震が走った。東日本大震災である。日本の左半身が水に飲まれ、火の手が上がり、原発が暴発し、2万人近くの命が犠牲となった。あの惨状を僕はテレビ越しに眺めていた。二週間後に上京を控えながら。

始めての東京は、余震が残り、物資が不足する街だった。世田谷区の調布寄り。漏れなく計画停電の範疇であり、テレビではまだACばかりがCMを埋めていた。入学式も中止となり、授業の始まりもひと月遅れ、部活に入るも馴染めない。沢山の人の中にいるはずなのに、会話するのはスーパーのおばさんだけ。いっそ殺してくれと思ったあの春の、およそ3ヶ月前に、僕は大家さんと出会った。


アパート決めに母と上京していた僕は、大学と陸上の練習場とに近い場所で家を借りようとした。千歳烏山・仙川・つつじヶ丘。京王線沿い、中堅どころの駅を巡る。2、3件見た中で、ロフトがあって広く、その割に家賃も安かったのが、後の我が家であった。大抵、学生が住むような安いアパートは大家さんが同じ敷地内に住んでいて、内見の際も同行するものなのだろうが、その家は違った。大家さんも少し離れたところに住んでおり、内見に行くと言うと、あらかじめ鍵を開けておくからとのことで、一度も大家さんに会わないまま家を決めることとなった。

しかし僕は、大家さんの声にどうも惹かれた。お婆ちゃんの声なのだが、どことなく艶があるような、魅力的な声だった。部屋を見る前から、なんとなくそこに決まるような予感がしていたのだった。


大家さんは82歳だった。話のテンポも早く、頭のキレもいい。コロッとした、感じのいいお婆ちゃんである。名を、ソノさんと言う。奇遇にも、同じ北海道出身だった。最近は足が悪くなって頻繁には帰れないけどネ。とニコニコ話していたのが目に浮かぶ。

アパートの部屋が空いたら不動産に普段は出しているのだけれど、学生とは直接やり取りをしていて、僕もソノさんの自宅で契約書を取り交わした。

その時はまだ、世に言うキラキラした大学生活になるものと信じて疑わなかった。部活も学業もと、心に期していた。が、現実は甘くなく、見事打ち砕かれたわけである。


僕は生来、人懐っこい性格だ。一人っ子という事情もあろう。大人に沿って、可愛がられるがままに生きてきた。そんな人間が見知らぬ土地で阻害の淵に叩き落されると、本当に生きていけなくなる。

苦し紛れに掴んだのが、ソノさんだった。

アパートで一人になって、いてもたってもいられなくなると、ソノさんに連絡した。ソノさんは出かけていなければいつでも僕を迎えてくれて、近所のセブンイレブンで買ってきたあんみつとかでおもてなしをしてくれた。お腹空いてんでしょ、食べなさい、昨日の夜の残りだけど保温してたから大丈夫よ。と、顔見るなりご飯を出してくれもした。何もない時には近所のジョナサンに行って、ソノさんとソノさんの旦那さんのお話、僕の家の話を日が高いうちから日が暮れるまでした。旦那さんの介護の話は壮絶だった。夫婦の愛とはかくあるべきかと思わされた。登記や確定申告もまだ私一人でやってるのよ。というソノさんの凄さは今改めて感じる。スーパー婆ちゃんである。

ご飯食べがては、季節ごとに近所のツツジやサクラを見に行ったりもした。北海道にはない四季を教えてくれたのもソノさんだった。彼女ではなかった。

そんな調子で、ほとんど毎週のようにソノさんの家に駆け込み、なんでもない話をして帰るのが上京間もない僕の生活だった。ソノさんじゃない大家さんだったら僕の生活は成り立っていなかったと思う。どうかしていたかもしれない。ギリギリいっぱいのところで東京に馴染めたのは、きっとソノさんがいたからだった。

学校も始まり、部活でも結果が出ない自分を見つめられるようになってくると、ソノさんに頼る機会も少しずつなくなっていった。それでも、どこかにいけばお土産は買って帰るし、その折にお話もした。毎週会っていたのがひと月に一回、3ヶ月に一回になったとしても、変わらぬ付き合いを続けていた。


社会人になって、引っ越しをしてからも、頻度はひどく下がったが、度々連絡をした。

足を痛めたけど、ボケたら嫌だから吉祥寺までバスで行って往来を見ているの。それだけでも脳に刺激があっていいのヨ!

電話越しに元気に話すソノさんであったが、結局、僕と元気なソノさんが直接話をしたのは2年ほど前が最後となった。

ソノさんは癌になった。そうとは知らず、社会人になってから一度遊びに行こうと近くまで寄ったのだが、気丈に断られた。きちんともてなせないのが嫌だったのだろう。

僕の母も、中元歳暮に近いようなのやりとりをソノさんとしていた。北海道の季節の野菜を送っていたのである。そりゃ母からしたら息子がお世話になります以外のなんでもない。母から、ソノさんからお礼の電話が入って、こんなことを話した、元気そうだったなどと報告を受けては安心していたのだが、この夏、ソノさんの娘さんから連絡があったと言われた。

終末医療を受けている。気持ちは嬉しいのだが、喉を通る状態ではないから、もう季節の野菜などは送らないでください。

病院の場所もわからない。親類としては、大ごとにしたくないのかもしれない。何よりソノさん自身が、弱った姿を人様に見せたくないだろう。色々考えたが、ソノさんが考えそうなことを守ってあげようと思った。ころころと可愛いが、芯は気丈で強いお婆ちゃんなのである。


程なくして、今日、母からソノさんが亡くなったとの連絡を受けた。

素敵な大家さんであり、心の恩人だった。甲州街道を少し奥に入ったあたりの家、その窓際で、少し高いチェストに腰かけながら甘味を食べる姿を、今更ながらありありと思い出している。

教訓を授けるほど偉そうでもなく、心だけ、あの頃のやるせない寂しさだけをさらってくださった器量に、本当に救われた。なにより強く生きる姿こそが教訓だった。

心底の感謝を捧げたいと思う。