徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

日食なつこ「あのデパート」

故郷にはその昔、デパートがあった。北見東急である。

「北の墓場」とも揶揄される最北の国立大学、北見工業大学。その初代理事長が、東急電鉄の創立者である五島慶太だった。北見に工業の学府を設置しようとの話が持ち上がった際、資金を援助したのが五島であり、その後北見は東急グループに支えられて発展を遂げた。北見に東急デパートが最近まで営業していたのはそうした事情からだった。

僕の母は千葉県佐倉市出身であり、鉄工所の娘として育った。「製造業は粗利がいい」と母は言うが、設備の減価償却さえ終わってしまえば、経費としてかかるのは人件費と材料費くらいなものである。そう考えれば、確かに営業効率はいいのだろう。母も若い頃は銀座や千葉のデパートでよく遊んでいたようだ。

温暖な気候で育った母が北の果てに嫁いだ訳は、頭のネジが数本外れていたことと、街にデパートがあったこと。であると、僕は思っている。北見東急が閉店して10年ちょっと経つが、いまだに、寂しいね、東急があったらね、と話す。

ちなみに、東急があった場所は今市役所に建て替える工事を行っている。建て替え以前は市が運営する商業施設兼行政施設となっていた。かつて市役所があった場所には日赤病院が増築され、東急と双璧をなしていたHOWという商業施設(あれはどこが運営していたのか。)は壊されて信用金庫が建てられている。市の中心部では商業施設と行政・金融インフラの置き換えが激しい。そりゃ寂しい街になるわな。まぁよしとして。

 

セブン&アイが大胆な構造改革を断行すると発表した。地方のデパートやスーパー、不採算店舗を閉め、正社員は本社か別の店舗に、契約社員は契約解除に。3000人規模の人員整理。それは全従業員の約2割に当たる。大規模リストラと言える。

企業は利益を追求する存在であるとすると、原則、入れた水より出る水の方が多い桶ではいけない。いわゆる赤字である。赤字が続く事業をどう立て直すかは経営の腕の見せ所だし、赤字にさせないために全員で営業努力をする必要がある。もしそれでも、どうしても採算が取れず、見通しが立たない場合には店を閉めるのも一つの経営判断として市場に受け止められる。実際に、セブン&アイの株価は人員整理を発表してから最高値をつけた。

 

タイトルの、日食なつこがどういったシンガーかは、この場では割愛する。好きでよく聴いている。

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「あのデパート」は、確か父から紹介してもらった曲だったと思う。

社会人1年目か2年目の頃、東京に父が遊びに来て、我が家に泊まった際に聴いていた記憶がある。こんな曲も聴くのかと驚いた。

日食なつこの地元、岩手県花巻市で営業していたマルカン百貨店の思い出を歌った曲だ。

あのデパートの最上階から見た

この街の景色が果てしなく思えていた

あの頃の僕らはずっとずっといるんだ

次の夏になくなってしまう あのデパートに

北見東急の姿が、少しだけ重なる。

東急の二階、隣に建つ立体駐車場に繋がる屋外の通路で鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだ覚えがある。ちっちゃなシネマで上映される映画を見にいったのも東急だ。日食なつこが抱えるような鮮烈な体験が体の奥底に眠っている訳ではないかもしれない。けど、僕の子供時代を振り返った時に確実に北見東急は存在している。

 

今、世間的には比較的珍しい立場でデパートに関わっている。デパートのことを一生懸命考えなければいけない、そんな立場にある。

バブル期に乱立した地方にある「デパート」は、たくさんの土地と人とモノを集めて、家族づれの休日の受け口となり、郊外の一つのシンボルになった。屋上の遊園地や、「あのデパート」の中で歌われている食堂なんかは街の住民たちの心象風景として残っている。しかし時代は下り、「デパート」という象のような業態は時流に適さなくなった。少なくとも、世の中では事業整理の対象として見られるようになった。

北見東急がそうだったように、セブン&アイの構造改革がそうだったように、お店の財務諸表を捉えて、事業の存続を冷静に見ていく経営判断は必要だし、その面では正しい決断だと思う。

ただ、「僕にとっての」北見東急がそうだったように、「日食なつこにとっての」マルカン百貨店がそうだったように、心象風景として、街の風景としてのデパートがなくなるということは、とてつもなく寂しいことだ。働いている人も、街としての魅力を保ちたい行政も、みんなが寂しい思いをすることだ。

もしかしたら、デパートの業態が昔と変わらずに残っているからこそ、僕らは寂しさと懐かしさをデパートから感じるのかもしれない。時代の流れと相反する部分で市民が懐かしさを感じ、一方ではその業態が整理の対象となりつつある。なんとも皮肉だ。

 

思い出すらも美しい。日食なつこの曲を聞いたらそうも思えるが、悲しみや寂しさを濾過した上澄みが思い出とも言えるだろう。本当なら、悲しい思いや寂しい思いをする必要はないし、させてはいけない。デパートとして、新しくなっていかなければならない。象のような大きな体を揺らして、生き残っていかなければならない。

次の夏になくなってしまう

あのデパートに

言葉では表しきれない感情を理解しきるのは難しい。だからこそ、生き残っていかなければならないのだ。