徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「ボーダー 二つの世界」を観ました。

観ました。

border-movie.jp

 

面白い映画はたくさんあると思う。最近で言えば、名探偵ピカチュウも面白かったし、クレヨンしんちゃんも面白かった。アラジンもライオンキングも面白かった。

「ボーダー 二つの世界」は、親父から勧められた。原作小説を読んだらしい。面白いようだから観てみてくださいと言われたので、暇を縫って観てきた。たまたま横浜、みなとみらいのシネマで上映されていたからよかった。

本日14時半からの上映で、16時半に終わり、みなとみらいのシネマから横浜駅までの道、帰りの電車、駅から家までの道、ずーっとモヤモヤとしている。これは「面白い映画」として咀嚼してしまっていいのだろうかと、悶々としている。

 

物語は、何か不気味な霧のようなものにずっと覆われていたような気がした。ビビリな僕は、ずっとハラハラしながら観ていた。

構成としては、メインキャストのティーナが、もう一人のメインキャストのヴォーレに、世間一般の「人間」と自分との差が何に起因するものなのかを明らかにされる前半部分と、人とは違う存在であるティーナとヴォーレが、人間の醜さにそれぞれの方法で向き合う後半部分に分かれている。

「ボーダー」とは、境界である。境界があるということは、差が存在している。

生まれたばかりの赤子は、まだ自分と世界との区別がついておらず、成長の過程で世界と自分を分けて認知できるようになる…と、確か認知心理学か何かで学んだ知識が、映画を見ながら頭をよぎった。人間は、無意識のうちに区別をする生物なのだ。少なくとも区別をすることで成長を遂げる生物だ。

そうした生き物が織りなす社会だから、区別と差が溢れる。

その差を認めた時に、何を普通とするか。普通とされるものが、普通ではないものと向き合った時に、普通ではない物をどう扱うか。普通ではないものが、普通から虐げられた時、どう感じるか。また、普通ではないものが、普通とされるものの醜さを見つけた時に、どう感じるか。

僕は、劇中の普通と普通でないものの物語を、自分が感じてきた差や区別に置き換えて観賞した。多分、本作を観た誰もがそうなんだと思う。

 

映画を見ていて上手いなぁと思ったのが、あからさまに世の中に溢れる差を提示するのではなく、実在しない差を提示することで、一人一人が感じている差を想起させていることだ。一般化を失敗すると、誰にも共感されない悲しい作品となってしまうが、この映画は不思議と考えさせられる作品だった。それは映像から起因するものなのか、なんなのか、わからない。

 

映像としても素晴らしい作品のようだ。僕自身の映画を見た本数が多くはないので、映像表現の良し悪しを語る術を持っていないことが残念であるが、件のセックスシーンは忘れえぬものとなった。真夜中にあのシーンだけ見たら笑ってしまうかもしれないが、ティーナが生きている様子を垣間見たあとであのシーンを見ると全く笑えない。衝撃的である。

 

誰かと見に行くというよりは、自分が感じてきた差や区別、差別を思い出し、ずずーっと感情移入していくべき映画だと思う。

近くに上映している劇場があるのならば、一日ゆっくり考えるだけの時間を用意した上で、観賞してみてください。

 

個別具体的な内容について語るだけの言葉がなかったなぁ。