徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

セルフ締め出し〜浜辺に落とした鍵を探せ!〜

ここ3ヶ月ほど、暇を見て走ることを続けている。初秋はまだ日も長く、日の出が早かったため朝6時に起きて走ってから会社に行くなんて芸当もできたが、このところの日照時間では6時でもまだ暗い。そして寒い。朝は無理だ。気が滅入る。家帰ってから走る気力などもなく、すると、休みの日に走ることとなる。

一昨日もそうだった。
掃除やら昼寝を済ませて、時間が空いた。クリスマスの夜。キリストが生まれたのは24日から25日にかけてだったか、25日の夜だったか。はて…と考えながら走る。僕の走りゆく景色の中に、どれだけのロマンティックが眠っていたことだろうか。無機質な外観に潜んだ有機質を思いながら住宅街を駆ける。
当初はノロノロ走る予定だった。ノロノロ走りは考えが巡っていい。血液が適度に体を廻り、酸素を脳に運んでくれる。が、どうものんびり長時間ランニングは性に合わないようで、勝手にペースは上がり、わずか3キロちょっとで自らあげたペースに追いついていけなくなり立ち止まる。
 
家の近くに浜辺がある。
大森ふるさとの浜辺公園という海浜公園だ。人工的に作られた感満載の浜辺が300メートル程度広がっている。面しているのは東京湾なので、大自然とか、大海原とかを想起させるような海浜ではないが、浜辺は浜辺である。
自動ハイペース自爆ランの目的地は、この浜辺になることが多い。浜辺まで行って、簡単にストレッチとか動きづくりとかダッシュをする。そもそも短距離選手だ。のんびり走るよりはなにも考えんと全速力で走れ!的なランを求めてしまう。というか身体の作りからしてそうそう長く走れない。
 
果たして、クリスマスの夜の浜辺である。ライトアップもなく、漆黒が広がり、ただ水が寄せる音が聞こえる。肩を寄せる恋人達もいない。何しろ寒い。気温7度とかである。浜風も吹く7度でいちゃつくけるほど東京の人はタフではないらしい。ダウンジャケットを着てなにやら運動をしているらしいおじちゃんと、やたら軽装の僕と、二人だけの奇妙な浜辺で、僕はダッシュを繰り返した。公の場でゼエゼエ息をしながらダッシュと腹筋を行うお兄さんは、側から見たらなかなか芳しいものだったろう。だが今日はクリスマス。先入観を抜きにしたサンタも相当怪しい見た目だろう。僕が認められない理由はないはずだ。
 
ひとしきり汗をかいて、家に帰る。家路にはスーパーマーケットがある。一汗かいたし、晩酌用のつまみと、一人分のケーキを買って帰ることとした。そこではPayPayが使えるのだ。走りに行っているから財布は持たない。ただ、音楽は聴きたいからスマホは持つ。それで決済までできてしまうのだ。なんと便利なものか。
大掃除の際に足りなくなった洗剤とか諸々もがっつり買い込んで、ヨタヨタ歩きながらマンションまで歩く。汗が少し冷えてきて、早く暖かい家に帰って風呂に入りたいなぁなんて思いながら。
家に着く。
はたと気がつく。
鍵がない。
両手に抱えた荷物を下ろし、セルフで手荷物検査を行う。ない。ない。
いよいよ盛り上がりを見せてきた物語。現状を整理しよう。

しばらく走ってダッシュと腹筋をした身体
汗が冷えてきている
手には冷蔵の商品含めた荷物
財布はない
スマホはある
電池残量19%
明日は仕事

シンプルに逆境である。
鍵はポッケに入っていた。それは間違いない。それが失くなったといえば、可能性は一つ。走りながら落とした以外にない。時は聖夜。決死の鍵捜索劇が幕を開けた。
僕の走行は2パートに分かれていた。ジョギングパートと、ダッシュパート。運動負荷や身体の弾み方的に、ジョギングで鍵がポッケから滑り落ちるとは考え難かった。これまで辿った道を全てくまなく探すのは不可能と踏み、ダッシュをした浜辺に落ちている可能性に賭けた。
家の前の木陰に荷物を置いて、走って再び浜辺に向かう。冬でよかった。直ちに食べ物が腐ることはないだろう。もうクリスマスの住宅街に想いを馳せている余裕もない。ただ、鍵を想う。
猛スピードで浜辺までたどり着く。漆黒の海が寄せては返す。鍵は俺が飲み込んだとでも言う様な、ふてぶてしい漣だ。
茫漠と広がる砂浜に向かいあい、18%に電池が減った携帯の明かりを頼りに、浜辺の探索が始まった。浜風は冷たい。走って熱っているとはいえ、冬の海風に体温は奪われる。どこで落としたかもわからない鍵を、狭いとはいえ暗闇の浜辺で見つけられるのだろうか。見つけなければならない。見つけるんだ。
気持ちだ。気持ちでしかない。絶対見つかる、強い気持ちで探すが、体温は人をポジティブにもネガティブにもする。寒さで心がしなる。折れそうになる。

自分がしばらく前に残したダッシュの足跡の付近をうろうろとする。ライトをぶんぶん振りながら。ない。諦めがよぎる。しかし、行き場がない。聖夜に孤独を思い知る。途方に暮れたときに、閃いた。
俺、腹筋してた。
そう、走ってばかりじゃない。腹筋をしていたのだ、僕は。腹筋をしたベンチに向かう。ライトをかざす。
鍵は、あった。
僕を待っていたのだ。

皆さんは、今年中に、歓喜に震えたことがあったか。そうそうないだろう。
僕は、歓喜に震えた。クリスマスの空の下、歓喜を拾い上げたのだ。電池残量12%。何もかもをなくすかもしれない瀬戸際から、すべてを取り戻した。これを奇跡と言わず、なにに奇跡と名付けようか。


と、まぁよく考えて欲しいのですが、一人でしばらく鍵を失くして、一人で見つけてるだけなので、結果だけ見たらちょっと長めに走ったくらいの話でしかないんですよね。一度大きく気持ちがマイナスに傾いてからゼロに戻った、それだけの話です。
人生に、似ていると感じました。
生まれて死ぬこと。これが、人間にプログラムされた共通のシステムです。始点と終点が定められている中で、どのようにその間を面白おかしく過ごすか。ただ走って帰っての物語よりも、鍵をなくして見つける方が、感情の起伏やドラマ性がある。鍵を見つけたサイドの人間からするとそう思います。
しかしこれも人生、必ず見つかるとも限らないのですよね。不時着していたら目も当てられませんでした。
今度からは、チャックのついたズボンで走ることにします。

以上、お疲れ様でした。