徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

津久井やまゆり園の事件について

初公判が開かれる。

2016年、福祉施設やまゆり園に入園している重度の知的障害者を19人無差別に殺害した犯人は、意思疎通ができないような役に立たない人間はいない方がいい、コストがかかるだけだとの思想のもとでことを起こしたという。重大な事件が起こった際には必ず争点となる責任能力の有無を本件においても争っていくようだ。

 

事件を起こした動機を考えてみる。

例えば他の大量殺人の犯人、それこそ最近で言えば京都アニメーションの件などでは私怨に近い同期だった。秋葉原の大量殺害事件も同様だ。

本件の動機は、福祉施設に勤めている職員が入居者に対すして抱いた感情であるため、広義での私怨と言える。しかし、犯人が感情を抱いた対象が「役に立たない人」と悪い意味で一般化された時、この事件の動機は僕たちに大きな問いかけを迫る。

 

犯人が語る動機は、「障害者は不幸をもたらす」という言葉に収斂される。それは、意思の疎通ができず、なにをするにも誰かに介助をしてもらわないとならない人ということで、犯人は社会の役に立たない人とも語る。

考えなければいけないことはなんだろう。

 


社会の役に立つ・役に立たないとはなにか


まず、不幸をもたらすのは、「社会の役に立たないから」であると考えた時、社会の役に立つ・役に立たないとはどういうことなのだろうか。

社会の意味合いを国にまで広げて考えてみると、賃金を受け取っているか、納税を行っているかという視点は一つ考えられるだろう。労働の対価は賃金のペイで表されるのが現代社会だし、労働を仮にしていなくても、国民の義務として定められている納税を行っていれば、国・社会に貢献していると言える。

では、それらに該当しない場合はどうなのだろうか。

お金の動きで定量的に役に立っている様が見られない際には、感情の動きを考えていくこととなる。

感謝される、嬉しい楽しい気持ちにさせるなど、なんらかのポジティブな感情を誰かに与えることができれば、少なくとも二者間において、役に立っているとみなせる。

では、それもなかったらどうだろう。定量的にも、定性的にも、全くポジティブな効果を誰にももたらさない場合は、社会の役に立たないと規定されてしまうのだろうか。

そんなわけはない。これは理屈じゃなくて、感情とか倫理とかもっと深い部分で、そんなわけはあるまいと思う。


人間は社会の役に立つ必要があるのか

 

すると、社会の役に立つ・立たないという二元構造で人間を捉えること自体が間違っているのではないか。ことに今の世の中であれば、生産性至上主義になっており、優秀な人間が役に立つように見えたり、そうではない人間が役に立たないように見えたりする。

だが、人間が作り出した資本主義の上で規定される生産性という尺度で人間を測ること自体が、正しいのかどうかは考えなければならないと思う。

そもそも、生命は種の保存を史上命題に設定している。お金稼ぎでも社会のために生きるでもなく。社会の文脈で考えたら正しいことは、生命の文脈で考えたらとるに足らないものとなる(現代の生命活動を考えたときにはお金や社会性は切って切れないものではあるのだけれど)。一義的に役に立つ・立たないを規定することは難しいし、ある意味では社会の役に立つ必要はないとも言える。

 では、体質として種の保存に寄与できず、社会の論理の中でも弾かれてしまう人間は、役に立たない人間なのか。


人の命に価値をつけるのは誰か


結局、この話が行き着くところは、人の命に価値をつけるのは誰か。という問いなのではなかろうか。

犯人は、自分の就労体験から人の価値を判断し、自分の価値観において凶刃を振り回した。社会において役に立たない、本質的に役に立たないと語りながら。

貧富によって価値が決まるように見えるのは、資本主義の上でしかないことは先述した。種の保存の論理において、生存に適さない種は歴史とともに淘汰されていく運命にあるが、「君は種の保存に適してないから今すぐいなくなってください」なんてシステムは生命の連環の中に存在しない。

では、人が生きる、生命が生きる価値はどこにあるのか、誰が決めるのかというと、それは本人でしかない。

生きている人が、自分の生をどう感じるか。それでしか命はわからない。

重度の障害で意志の疎通ができないとき、当人がどう考えているかを表す言葉が出ないかもしれない、感情の起伏も読めないかもしれない。では、家族はどうか、親族はどうか。当人との触れ合いの中で喜びを得ている人はいないか。仮に孤独の身だとしても、その命を他人の手によって止めることは許されない。命の価値を判断するのは当人でなければならないから。



似たり寄ったりの話で、介護現場の話や尊厳死の議論があるように思う。施設に預ける金銭的体力も、自ら世話をする肉体的体力もない場合、袖の振り様がなくなる。

老老介護で検索して最初にひっかかるページを見ても、「家族に相談しましょう。社会のサポートを頼りましょう。」と、それで解決したら困らないよなぁというアドバイスばかりが並び、社会問題であることを身に染みて感じる。


命の判断を個々人に迫らないようにしなければいけないのが、国の福祉の仕事なのだろう。「この人がいなくならないと私は生きてはいけない」状態は、命の価値の判断を他人に迫っていることに等しい。

倫理観で人を救えないこともわかる。命の価値や命の行き先は自分でしか決められないだろうとかぽいぽい書いたところで、「じゃあお前やってみろよ、福祉と介護の現場で働いてみろよ」と言われるのが関の山だし、僕はそうした経験がないから何も語る言葉がない。

でも、思うだけは思うし、考えるだけは考える。

あまりにも凄惨な、遣る瀬ない気持ちにさせる事件を前にして。