徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

今年の抱負

高校時代の同級生たちと飲んだ。随分と親しくしている気がするけど、よくよく考えたら高校3年の時1年間だけ同じクラスだっただけの付き合いだった。縁やらゆかりやらはわからないものですね。

年2回は会っているような仲良しもいれば、ゆっくり話すのは久しぶりの人もいた。高校時代の話も、最近の話もした。そしてやはり、今年の抱負に話が及んだ。この時期ならではである。生き方、決めたいこと、やりたいことや買いたいもの。三者三様十人十色、揚げ連ねられた今年の抱負。

一方で、医療現場に従事している友人もおり、彼女らからは生きていくことを支援すること、死んでいくことを支援すること、どっちも業務としてありえて、それぞれに主観を交えずに仕事に当たっていく強さを学んだ。生とは?なんだ?

 

僕もその場ではそれらしく今年の抱負を唱えたけれど、テクテク歩きながら今日の出来事や最近の考えを反芻して、果たしてなにを道標に生きて行こうか考えた。

二つある。

生き物として生きることと、人間として生きること。

どちらも達成したい。これは今年の目標でもあり、これからの目標でもある。

 

生き物として生きること

人間は面白いもので、万物の霊長とか言ってあらゆる生物の頂点にたってますみたいなことをいいながら、その性質は全然生物っぽくない。生物一般が生命の保存や種の保存を史上命題に掲げて結果にコミットしようとしている側、人間はと言うと、エヴァンゲリオンがまじで半端ないとか、万里の長城作ってみたとか、Twitterでちょっとバズったとか、恐ろしく生命の営みに反することで一喜一憂しまくっている。

これは、シュモクザメで言う目と目がどれだけ離れているかとか、キモモマイコドリで言うどれだけムーンウォークがうまくできるかのような、生命として優れているとみられる特徴が多様化していて、シンプルにガタイが良くてたくましいとかだけでなく、社会的にどれだけ優れているか(お金を持っているか)、歌がうまい、趣味が合う、ぱっちり二重、声が可愛いなどなど、様々な特徴のなかで何が優れていて欲しいかを個々が決められるようになっているためである。

じゃあ、自分は生物として、どんな特徴がある人が好ましく思うのか、どうありたいのかは、自分じゃなきゃ決められない。この辺りの、生物としての自分を決めていきたいと思う。

この軸のポイントは、生物の史上命題は種の保存であり、これを満たしてしまえば、生物としてはいったんご苦労様でしたになる点。お相手探し。菅田将暉はまちがいさがしをして2019年のヒーローとなったが、僕はお相手探しである。売れる気がしない。

 

人間として生きること

人間が面白いのは、人間として生きることができるからだろう。

そもそも、今年の抱負なんて会話ができる時点で、人間としての生を享受しまくっている。「今年」を感じることができるのも、「抱負」を抱くことができるのも、万物において人間しかいない。

天体が巡りゆくのを観察し、地球の動きと宇宙の動きを照らし合わせて日々を区切り、一年を決める。その上で、自分がどうしたいか。大抵の生物が生命にインプットされた行動を緻密に履行して効率よく子孫繁栄を目指す中、人間は進化しすぎたのか、一人一人がそれぞれの価値観をもち、それぞれの判断のもとで生きる。結果とし現れる行動が生物として正しくても正しくなくても関係ない。主観として、楽しく、意義があることなら、あらゆる活動が人間らしさを帯びる。こんな生のあり方は、人間にだけ許された特権だろう。

 

昨年は社会的な変化もあり、日々に追われて、訳もわからないまま走った一年だったが、もしある程度余裕が出てくるのであれば、2つの生き方を心に留めて次の一年を過ごしたい。

この判断は生物として正しい。人間の生としてこうしていきたい。とかって呟きながら。