徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

恩師の定年退職に寄せて

恩師が定年退職になる。この三月で、教鞭を置く。


教師と生徒でもあり、師匠と弟子でもあった。高校3年間の学年主任が、高校3年間の部活の顧問。学業も部活も、文武のどちらの道でも手を引いてもらい、二人三脚のように走った高校生活だった。

とはいえ、人と人のことである。否応がなしに付き合いが深くなる相手と、人間としても相性がよかったのは幸運だった。今でも帰省のたびに必ず連絡をし、ご飯を食べに行き、3時間4時間と語らう。師匠と弟子というより、既に縁深い友人のような関係なのかもしれない。


定年に際して、代々の教子からビデオレターを送ることになった。何かしてあげたい気持ちを周りに相談したら、そうした形に落ち着いた。

一昨日あたりからどしどしビデオメッセージが届きはじめ、いま、懸命に作業を行なっている。僕の母校にて指導をした13年分の教え子からのメッセージ。動画編集の素人が行うにはハードすぎる業に突っ込んでいる。技術より、気持ち。技術より、気持ち。と呟きながらカチカチ作業をする。動画の時間が1時間を超えている。誰が見るのか。誰が、誰を、誰のための。


ヒト、モノ、カネ。一つのフレームワークとして使われる概念だ。モノの部分は様々だが、多くの企業がこの三要素を資源として企業活動を行なっている。

動画編集を行い、教え子たちから先生へのメッセージを垣間見ていると、教師というのはこれほどまでに人に様々なものを授けるのか、感謝されるのかと、驚く。皆、子供や夫、妻と共に画角に映り、わたしはいまこんな生活を送っていますと笑う。今の私があるのは、今の価値観があるのは、先生のおかげですと話す。これは、僕らの企業が、モノを通してカネを貰ってヒトを喜ばせているレベルでは到底到達しない人間関係だ。それは、モノとカネを抜きにして、人と人の商売…人と人のコミュニケーションだけで、教師と生徒の関係が成り立っているからであろう。社会において、そんな高純度の人間関係はまず存在し得ない。

密度の濃い人間関係に苦しむ教師もあるだろうが、密度から沢山の学びと言葉を生徒に残す教師もある。恩師がまさにそうだった。「先生のあの言葉が、あの表情が、今の私を支えています。」そんなメッセージが多い。つくづく、凄い人だったんだなと思う。


彼が人に遺しているものを思うと、自分の人生がいかに人から与えてもらってばかりの人生かと痛感する。ここまでの人生、まじでgiveばかりだ。どれだけ誰にtakeをしたらいいのやらわからない。社会人なのだから、社会にtakeしたらいいのだろうが、すると結局ヒトモノカネの話に帰結していく。カネの量で貢献度が測られるtake。思想では生きていけないから、結局は経済活動でしかなくなってしまうな、と思う。


わかりやすい出世の道を選ばず、文武の両面でとてつもない業務量をこなしながら人を育てた恩師の凄さを、恩師に向けられたメッセージに触れながら思う。

作業は果たして、終わるのだろうか。