徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

失ったものは粉のように

人生を歩む中で、たっくさんの出来事があるでしょう。歯磨きとかシャワーとかのように毎日やる事から、結婚とか人生の中でそう何度も起こらないことまで、盛りだくさんだ。ライフイベントをいくつもいくつもこなした結果、みなさん平等に死んでいってしまうのだけれども、そのライフイベントにはいくつかの分類方法があるはずだ。嬉しいことと悲しいことが人生において半分半分とかいうことは、一昔前の高校生の携帯待ち受けによく使われたポエムだし、それこそ日常と非日常なんて括りもできる。

一つ、良いことと悪いことって括りもできるはずだ。

自分にとっていいことと、自分にとって悪いこと。嬉しいことと悲しいことの上位概念みたいなもの。つらーい勉強とか練習でも、将来につながるのだったらいいことだったりする。複雑なところだ。

世の中の悪いことを考えると、人の死なんてのはひどく悪いことのように感じる。大切な人と二度と会えない寂しさなんて、もうそれは計り知れない。良い悪いでは包含できないほどの悲しみや虚しさを与えられる。

でも、人の死はどうしても逃れられないことだ。だから良い悪いの範疇から飛び出ているともいえる。誰の人生にも共通して言えることは、生まれたことと死ぬことしかない。誰もが通る道に、良い悪いはないのだ。

悪いことっていうのは、そういう避けられない事柄じゃなくて、どっちかって言うと避けられたのにもかかわらず自分の過失によって悪いの中に突っ込んでいってしまった状況だろう。寝坊とかはぶっちぎりで悪いことだ。起きるなんて自制によっていくらでもなんとかなるというのに。

言いたいことは何かって、人の死なんかより、寝坊とか自分で何とかなる系ミスが何よりも愚かしく、悪いことなんだってことです。その禍根はいつまでも、反省と後悔の証として鈍く禍々しく残っていくことになるのです。わかったか皆の衆。

 

 

携帯どっかやったぁあぁあっぁぁあぁっぁぁぁあl