徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

社会で戦っていくために、「考える」こと

怒涛であった。確実に昨日までは怒涛の毎日であり、おそらく明日からも変わりなく怒涛の毎日が続いている。火を見るよりも明らかな事実だ。同じような日は1日として存在せず、刻々と変化する状況に対してどう対応するか、考えて考えて方針を出して伝え、棄却され、また考え、方針を出しては折衝し一つ歩みを前に進める。ニュートンの振り子はずっと同じ運動を続けるのに、なぜこうも僕は毎日異なる運動をするのか。教えて万有引力。

今は非常事態で、通常のことなんて何一つない。どの社会をとってもそうだろう。1ヶ月前に貪っていた休暇なんて遥か昔のこととなり、今や目まぐるしく動く生物の細胞の一部として、日々働く。細胞の役目をまっとうするべく、考え続ける。足りないことはないか、より良くならないか。様々な部署から山ほどボールが投げかけられ、正しいことを正しく伝え、わからないことは尋ね、理屈を捏ねなければいけないことは一生懸命理屈を立てる。なぜこうなっているのか、どうしたら組織が思う方向に持っていけるのか。一個一個の事象について、広く深く考えて、あらゆるパターンを想定できればいいのだが、実際はそこまで出来が良くなく、想定外の問合せや事象を前に、また考える羽目になったりする。大抵、僕の考えは会社の考えになってしまうが、僕自身に一切裁量権はないので、会社の裁量権がある人に確認をとってからの対応となる。もしくは、裁量権がある人の意思を形にすることが仕事となる。見越して動かなければならない。日々反省が尽きない。ただ、少なくとも自分の感覚や自分の考えの正しさを少しずつ信用できてきている。

 

新社会人のための教科書のような本がいくつも出版されていると記憶している。あの手の本にどのような教義やテクニックが収録されているかはさておき、社会で生き抜いていくためには、、、と考えた時、それは考え続けて動き続けることだと言える。はっきり、それしかないと思う。

じゃあ、「考える」とは実際なんなのだろうか。僕たちは何について考えなければならず、どう考えなければならないのか。

経験から、大きく三つあると思う。

  • なぜか。
  • 関わる人は誰か、全ての人の立場からみてどうか。
  • どのような影響を及ぼすか。

 

なぜか。

これは単純である。一つの出来事に対して一つの立場から一つの理屈でブチ抜けばいい。トヨタ生産方式ではなぜは5回繰り返せと言っているらしい。ごもっともである。なぜの理屈が立たないとそもそも施作をやる意味がない。考えるの入り口である。ここには絶対的な正義が入ることが多い。経費削減であるとか、売り上げ拡大であるとか、企業活動の根幹に関わる理屈がなぜから生み出される。帰結する最後の理由は、顧客満足になるのが相場だ。

 

関わる人は誰か、全ての人の立場からみてどうか。

一つの理屈で成り立った理論は一つの立場からみたら強固だが、他の立場から見た時に脆弱だ。利害が一致している集団ならいいが、9割9分、利害なんて一致していない。だから、あらゆる立場で考える必要がある。これが難しい。訓練しかないのだろうが、どうしても自分の都合の良いように解釈してしまう。この思考を行う時、僕は囲碁を打っていた頃を思い出す。あれは他人の立場で考えるトレーニングとしてはうってつけだ。手を読む時、相手の最善手を考えなければいけない。自分が最も苦しくなる手を読み、自分はそれに対する最善手を返す。その繰り返しである。ある施作が他の人にとってどう受け取られ、他の人はどのような動きをするのか。囲碁と全く同じ構造である。なるほど、これが苦手だから俺は囲碁で大成しなかったんだなと、納得を重ねる日々だ。

 

どのような影響を及ぼすか。

関わる人の話にも類似するが、風吹けば桶屋が儲かるように、一つのことを行うととんでもないところに影響がいくことが多い。こうなったらこうなる、こうなったらこうなる、こうなったら、、、と、とにかくシミュレーションを重ねる必要がある。例えば、「誰がやるの?」から派生して、人出せるの?どの職場から人出すの?その職場の状況はどうなの?無理ならどうするの?何かやめるの?やめられるものあるの?やめた影響はどうなの?その人たちは困らないの?って影響は広がりまくる。漏れなく全てを想定する必要がある。

 

これら全部「考える」である。なぜなぜなぜで打ち抜いた理論は縦に強いが横に弱い。幹を太くするためには、誰が関わるか、どのような影響を及ぼすか、理屈では問題ないが感情ではどうか、と考えていかなければならない。考えられうる全てを想定した上で、「それでもやるんだ」が、判断である。

機会があってニュースピックスというキュレーションサイトを覗きみた。インプットとアウトプットのサイクルを高速回転させてどうのこうのって感じのサイトである。インプットとアウトプットを高速回転させるのは良いのだが、どこまで考えているのだろうと思ってしまう。考える主題があって、考え尽くそうとしている時に、ニュースは重要だ。想定すべき状況の一助となりうる。だが、出来事を額面通り受け取って感想を述べる行為は全く考えたうちに入らないなぁと、今にして思う。

 

人は、「仕事」というフィルターを通さないことにはここまで考えないのではなかろうか。僕のような、できれば日がな俳句読んで音楽を奏でて生きていたい人間は、「仕事」がないと考えない。歌詞考察のような叙情的な考えは好きこのむが、想定しまくる考えるは好きこのんで行ってこなかった。だが、今のこの状況で、今の職務についているからこそ、ここまで考えている。もっと考えている人も多く、言いくるめられることも多い。しかし、その人たちの考えの追いつこうと、もっと想定すべきことはあるのではないかと、沢山の理屈について考える。

勉強になっています。と月並みな言葉でまとめてしまえばそれまでだが、そうそう経験させてもらえることでもないなと思っている。

負けないで戦っていく。今日もまた。